THE SIGN OF FOUR スペシャル 四人の署名

 監督: ピーター・ハモンド director...Peter Hammond

 脚色: ジョン・ホークスワース dramatized...John Hawkesworth

 ゲスト: ジェニー・シーグローヴ(メアリ・モースタン) Jenny Seagrove as Mary Morstan

      ロナルド・レイシー(サディアス・ショルトー) Ronald Lacey as Thaddeus Sholto

      エムリス・ジェームズ(アセルニー・ジョーンズ警部) Emrys James as Inspector Athelney Jones

      ジョン・ソウ(ジョナサン・スモール) John Thaw as Jonathan Small

 10年前に父が謎の失踪を遂げた、美しい家庭教師メアリ・モースタンのもとへ毎年一つずつ届けられる高価な真珠。彼女と共に真珠の送り主ショルトーに会ったホームズとワトスンは、その双子の兄の不可解な死に遭遇する。事件の背後には、「アグラの財宝」の血塗られた物語が隠されていた。

 拡大スペシャル版として制作、本国でも一本のスペシャルとして放映されましたが、日本では前後編として放映。

 このエピソードでの、グラナダ版の最大の変更点は、「ワトスンはメアリと結ばれない」という点です。正典では、ワトスンとメアリのロマンスは、アグラの財宝をめぐるミステリーと並ぶ大きな柱になっているため、ストーリー全体の構成は正典にほぼ忠実であるにも関わらず、かなり正典とは異なった雰囲気になったように思います。

 実際のところ、正典のワトスンって、もう純愛一直線。いかにメアリが素敵な女性が、ノロケまくり。財宝を手に入れて大金持ちになるメアリには自分はふさわしくない、と苦悩するワトスンって、ほんと純情〜。サディアスの家に向かう途中の馬車の中で、ワトスンが「テントをのぞいた歩兵銃に虎の子をぶっ放した」という話をした、と後にメアリが主張するという件りが、ほのぼのした二人の結婚生活が垣間見えて、好きですね。

 グラナダ版では、エドさんのイメージ(年齢のことを言うと、「踊る人形」のヒルトン・キューピットなども結構年齢がいっているのにコテコテのラブ・ロマンスやってたので、トシは関係ないんじゃないかと)もあるので、抑制の効いた大人の恋として、メアリとの関係を描いています。デヴィッドさんのワトスンだったら、もっと正典に近い、ロマンチックな恋物語になっていたかも。(当初の予定ではこのスペシャルがグラナダ版第1話になるはずだったそうで。)

 その辺りのところでの正典とグラナダ版の違いは、次の有名なやりとりの描き方の違いによく現れています。

 ワトスン「魅力的な女性だ」
 ホームズ「気がつかなかったよ」

 正典では、このやりとりは、メアリが最初の訪問を辞した後で行われています。彼女にすっかり一目ぼれをしてしまったワトスンが情熱的に叫んだのに対し、ホームズはわざとらしい(笑)そっけなさで返し、ワトスンは少々傷ついた様子で、「君は人間的じゃない」と叫ぶのです。

 グラナダ版では、同じ場面では、ホームズは「気づかなかった」とまでは言わず、「仕事に私情を絡めるもんじゃない」といった趣旨の一般論的なことをさらっと述べるに止まってます。(ちなみにNHK版ではカットです。)このやりとりがあるのは、最後の場面、正典とは異なり、ワトスンは別段ホームズに聞かせるつもりもなく、窓辺でメアリを見送りながら、ぽつんとつぶやく(声に出したことも意識していないかもしれない)、一方ホームズは服を着たままベッドに寝転がって、半分寝そうになってる状態で「気づかなかったよ」とぼんやり返し、直後に寝入ってしまう。ワトスンの方も、ホームズの返事など全く気にも留めず、煙草をくゆらしながらもの想いに耽るのです。(素敵vv)

 正典の情熱的に恋に落ちてしまったワトスンと、グラナダ版の想いを秘めるワトスンの違いはもちろんですが、ワトスンがメアリに恋していることを鋭く意識している正典のホームズと、グラナダ版の全く無関心なホームズの違いもくっきり現れています。別にグラナダ版のホームズが鈍感で無神経、というわけではなく、ワトスンがメアリと結婚してベーカー街を出て行くかもしれない、という心配がないから、色恋沙汰にはもともと興味もないので、無関心なのです。(爆)現に、正典では、ワトスンが婚約の報告をした時、ホームズははっきり「そんなことじゃないかと思ってた」と「不景気そう」に言ってます。(笑笑)

 その結果、正典では、ジョーンズ警部は手柄を、ワトスンとメアリはよき伴侶を得たのに、ホームズにはコカインしか残されないという、探偵の孤独が強調された、少々索漠とした幕切れになってましたが、グラナダ版では、警部の手柄になったことに不服を言うワトスンに対して、ホームズが皮肉交じりながらも「お互いやり甲斐があったじゃないか」という趣旨のことを言い(NHK版にはありません)、二人が運命共同体であることを強く印象付ける結末になってます。

 「エッセイ」にも書きましたが、こうした変更によって、メアリ自身の描かれ方も正典とは異なったものになっています。メアリ役のジェニー・シーグローヴは、ジェレミーと並んでも見劣りがしないくらい長身で、多少ヒールのある靴を履いてはいるのでしょうけど、エドさんとはほとんど変わらないくらい。顔立ちもどちらかと言うときりっとしていて、小柄で華奢、愛らしい表情という正典のメアリのイメージとはだいぶ違います。ただ、「けだかく敏感そうな、青い大きい目」(創元推理文庫p.20)という点は共通してますが。服装などは、正典の「質素で飾り気のない」、「ねずみ色がかった地味な毛織物」(同前)とは明らかに異なってます。レース飾りのついたドレスや、ブローチで胸元を飾った黒いドレス、美しい青いドレス、そして何より印象的だった、純白のフード付きの外套など、派手、というわけではないですが、地味とか質素とはちょっと言えないようなファッションだと思うのですけど。同じグラナダ版でも、「ぶな屋敷」のヴァイオレット・ハンターや「ソア橋」のグレース・ダンバーなど、同じ家庭教師という地位にある女性の服装ともかなり印象が違うように思います。

 そして、何より、グラナダ版のメアリは、ジョナサン・スモールと対決し、その恐るべき物語をじかに聞いているのです。(話の内容もだけど、真正面でスモールににらまれて、絶対コワかったハズだっ)正典では、おどろおどろしい物語の中でも、終始、おどろおどろしさから遠ざけられて、フォレスタ夫人やワトスンに守られている印象が強いのに、グラナダ版のメアリは、父の死にまつわるおぞましい秘密に敢然と立ち向かい、亡き父を「紳士」と言ってくれたスモールに迷わず手をさしのべる、凛々しい、勇気のある女性です。正典の可憐で健気なメアリが、ワトスンのひたむきな純愛の理想の相手とするなら、グラナダ版のメアリは、抑制された大人の恋の対象としてこの上なくふさわしい、と言えるでしょう。敢えて自分の想いを口にすることなく、常にメアリに影のように寄り添うワトスンの、慎ましい愛情表現も、心に沁みるようですね。

 その他の変更点としては、冒頭部分、ホームズのコカイン使用に関する件りは第1話「ボヘミアの醜聞」の冒頭に流用されていて、ワトスンが時計を渡してホームズの推理力を試す(ワトスンにはダメ兄がいたことがわかる)場面などは、まだまだつきあい始めの時期だった正典はともかく、どう見ても長年「連れ添った」風のグラナダ版の二人が今さらそんなことをするのはおかしかろう、ということでカット、結局、ホームズがワトスンの「最近書いた物」(正典では『緋色の研究』)にケチをつける部分だけが残ります。でもさ、はっきり言って、ホームズの言う通りに書いていたら、ものすご〜くつまんない本になっちゃうよねん。つまんなくていいんだろうけど、売れないよ。ただ、グラナダ版では、窓からメアリを見つけて「美しい娘さんがこっちに来るよ」なんて浮かれてるワトスンに、「ロマンチック過ぎるのはよくないよ」と説教するような形で述べられているので、正典ほどは冷たく聞こえませんね。エラソーだけど。

 それから、面白かったのが、ホームズがワトスンに犬のトビーを連れて来てくれるよう頼むところで、正典でははっきりトビーが犬であることを告げているし、NHK版でも「犬だよ」と言っているんですが、実は原語版でははっきり犬とは告げず、ワトスンは人の名前かと思って、「Mr.トビーに会いたい」とか言っちゃう。でも、犬だとわかった時、うれしそうに両手でトビーを撫でるエドさん、もしかして犬好き?剥製屋の親父が「あんたにはついてゆきますよ」と言ったのは、やはりワトスンの人柄を見抜いてのことなのでしょうね。(ワトスンがトビーを借りにいくところは、NHK版はカット)トビーも可愛かったなあ。ホームズが屋根から下りる途中、足を踏み外すところで、ワトスンと一緒にドキッとするところとか、ベーカー街に押しかけてきたイレギュラーズのちびっこたちにびっくりしているところとか、クレオソールの樽の上で得意そうにしてるところとか。この時、「こらこら」といった感じのジェレミーの表情が素敵vv

 あと、モースタン大尉の描かれ方が正典よりずい分好意的になってますね。正典では、ショルトー少佐の同類、宝を持ち逃げしなかっただけマシ、という程度でしたが、まがりなりにもメアリのお父さんですからね。もうちょっと何とかしたい。そこで、グラナダ版では、あのスモールに「立派な紳士」と評され、ショルトー少佐とは違い、人格の優れた人物として描かれています。まあ、囚人と取引していわく付きの宝の分け前を手に入れようとしたわけですから、全く清廉潔白、というわけにはいかないでしょうが、借金を抱え、娘に仕送りを続けたい一心だったと思えば、同情の余地がないわけでもない。正典では、死の原因となったショルトーとのいさかいで自分の分け前だけを要求したようになっていますが、グラナダ版では、会話から推して、「スモールたちとの約束を守れ」と迫ったように思われます。回想のモースタン大尉の横顔とメアリの横顔が向かい合う形になった映像は、生きて再会することができなかった父と娘の絆を表しているようで、胸を打たれます。大尉役のテレンス・スケルトンは、シーグローヴと横顔がよく似ていて、親子らしく見えるのが、より効果的。

 それから、四人の署名のうちの三人の名前がグラナダ版では変わっていることについて、DVDのブックレットでも指摘されてますが、はっきり言って、正典の「マホメット」だの「アブドゥラ」だのって、イスラム教徒の名前じゃないですが。シーク教徒がそんな名前つけるわけがないのは現代史の常識。変更するのは当然。

 「もう一つの顔」で、グラナダ版のホームズは子ども好きっぽい、と書きましたが、考えてみれば、あれだけ浮浪児たちの心がつかめる(金目当て、だけではあれほどの働きはしてくれないと思う)ということは、そもそもホームズって、女嫌いだけど子ども好き、なんですね〜。

 ショルトー兄弟を二役で演じたロナルド・レイシーは、ハリソン・フォード主演の「レイダース〜失われたアーク」のサディストのナチ党員トート(ドイツ語で「死」!エッリザベ〜ト♪・・・わかる人はわかって)が強烈に印象に残ってますが、(「レイダース」には、「ボヘミアの醜聞」でボヘミア王を演じたウルフ・カーラーもナチ将校役で出演していたとか。・・・そっちは余り記憶にないが)見た目はそっくりなバーソロミューとサディアスを、性格はまるで反対なことがよく伝わる名演技。正典では、バーソロミューの方が、ショルトー少佐の秘蔵っ子と言われていましたが、グラナダ版では、やはり気立てのいいサディアスの方を愛しているのでは、と感じられるような演出になっていたように思いました。サディアスって、ヘンな人だけど、すっごくいい人ですよね。莫大な財宝を、メアリにもちゃんと分けてあげようと一生懸命努力していたわけですから。正典ではさほどよい印象で描かれてはいませんが、グラナダ版は、なんだか可愛らしくて好感を持ってしまいます。特にお兄さんが殺されたのを知って、うろたえちゃうところとか。

 あと、ジョナサン・スモール役のジョン・ソウ。日本でも放送された「モース警部」で人気の高い俳優ですが、ただの小悪党という印象に陥りそうなスモールを実に堂々とした人物として表現していて、さすがだ、と思いました。特に、警察のランチで捕まってるところが、何だか迫力があってかっこよかったなあ。

 さて、ホームズの物語を忠実に映像化することを至上命題としているグラナダ版ですが、やはり19世紀の物語、現代の視点から見ると、とても再現するわけにはいかない部分が出てくるのもいたしかたないところ。その最も大きな点が、差別や人権の問題でしょう。ドイル自身は、当時としては人権意識が高かった人物とは言われていますが、それでも、正典を読んでいると首をかしげるところが多々見られるわけです。

 グラナダ版もそうした点は改めるようにしてはいるようです。階級差別、性差別、障害者差別につながるような表現にはよく気を遣っていることがわかります。しかし、この「四人の署名」で特に如実に現れているように、残念ながら、人種差別や非ヨーロッパ的、非キリスト教的なものに対する差別的表現には余り注意が払われていないように思います。

 率直に言って、トンガの表現にはもう少し配慮が必要だったと思います。「獣みたい」と表現されたトンガの姿は、目を覆うばかりですし、NHK版ではカットされたアンダマン諸島の先住民についての叙述は、「大英帝国」の非ヨーロッパ的社会に対する蔑視がぷんぷんして、吐き気すら催します。正典の場合は「そういう時代だったから」で許されましょう。でも、現代で作られたドラマでは?アンダマン諸島出身の人が見たら、どう感じるでしょう?っていうか、そもそもアフリカ系の人が見てもいい感じはしないと思う。

 スモールの回想に登場したモースタン大尉が、「白人の囚人を虐待するな」と言っているところもそう。白人じゃなかったら、いくらでも虐待してもいいわけね。白人であるドラマ・スタッフには全く抵抗がない、とすれば、ある意味恐ろしいともいえましょう。そういう時代だったからそういう風に表現するんだ、というのでしょうが、でも、そんなことを言う人を「素晴らしい紳士」と表現することに抵抗を感じないわけでしょう?NHK版が「白人の」を削ったのは、「非白人」である我々の気概を示してもらったようで、内心拍手をしてしまいました。

 それから、「まがった男」でも触れましたが、植民地インドに対する、全く反省の視点のない描写。イギリスの搾取によってインドがいかにその後混迷したか。みんな、映画「ガンジー」を見ろよ〜。「アムリッツァルの虐殺」って知ってるか?インドとパキスタンの抗争も、もとはと言えば、英国が種をまいたことなんですよっ。むしろ、正典の方が、インドの民の、宗主国イギリスに対する憎しみをきちんと描いているような印象すら受けます。

 ラージャの部下を殺害する場面、進んだ文明国の人間であるスモールは人殺しに抵抗があるが、インド人どもは人の命なぞ屁とも思っていないような野蛮人って感じ。シーク教徒たちが、ラージャの部下をためらいもなく殺してしまえるのは、おそらくヒンドゥー教徒であろう被害者に対して、宗教的反感があるからだと思われます。ドイルはその辺りをわきまえていて、シーク教徒たちにヒンドゥー教徒たちを憎む発言をさせています。植民地インドの複雑な状況に、同時代の知識人としてある程度の認識を持っていたのでしょう。進んだ文明国であるはずの欧米の人たちだって、アフガンやイラクのイスラム教徒の人々を平気で殺せるじゃないですか。事の露見を恐れて、シーク教徒たちが、死体の火葬や野犬に始末させることを主張したのに、スモールだけは「死者の尊厳」を考えて手厚く土葬にした、というのも、ヨーロッパ人であるスモールは、一味違うんだ、と言っているようで、不快。正典では、殺人がバレたのは、被害者を監視していた人間がいたから、ということになっていた筈です。

 高い見識を持ってドラマの制作に当たっているはずのグラナダをして、やはり非ヨーロッパに対する差別意識がこれほどまでに抜きがたいのか、と思うと、何やらやりきれない気分に陥ってしまいました。(「もう一つの顔」で触れなかったけど、正典ではアヘン窟で働いているのは、マレー人とかデンマーク人とかなのに、グラナダ版は、何故か辮髪の中国人。あれはね、ロンドンの街中にちょんまげの日本人がいるのと同じくらい変なんですよ。だいいち、華僑は相互扶助の機能が発達しているから、中国人がインド人の下で働いていること自体おかしい。)英国労働者諸君が、サッカー観戦の時にアフリカ系の選手にひどい野次を浴びせる、というのもむべなるかな、だわな。

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