その夜は望月であった。
晴明は屋敷を出ると、灯りも持たずにすたすたと徒歩で朱雀門に向かった。
階を上り、望楼を見上げてしばらく待っていると、月の光の中、ふわりと軽い音をたてて降りてくる者があった。
山吹色の水干をまとった美しい男童である。
「朱呑童子どの」
晴明が呼ぶと、朱呑は艶然と微笑んだ。
「晴明どの」
「わたくしがここへ来たわけはご承知でしょう」
「おお」
朱呑はうなずいた。
「我が妹とその母親のことであろう」
まるで、母親の方とは縁がないかのような口ぶりである。
「わかっておる。いかな我が眷属とはいえ、博雅どのの身に害をなすならば、放ってはおけぬ。」
「博雅を守って頂けますか」
「博雅どのには安倍晴明がついておるからな。おれが守ってやるなどとはおこがましかろう。ただ」
朱呑の笑みに、何やら凄みのようなものが増した。
「場合によっては、このおれが自らあの女を討ち取るようなことになっても構わぬ、ということさ」
「わかりました」
晴明はうなずいた。それから、少し口調を改めて、
「朱呑どの」
「何だ」
「妹御が棲んでおられた丹後の山中とはいかなるところなのでしょう」
朱呑は美しい顔をしかめた。
「寂しいところよ。人はまず入り込むようなことはあるまいよ。赤子の頃より住み慣れて、鳥や獣、山の木々と話が出来るようになった者や、我らの如き風のように遠くまで駆けることのできる者ならば何とか耐えられようが、雪虫は十三の年まで人としてこの都で育った娘であるからなあ。よくもあそこまで辛抱したものよ。それに」
苦々しげな口調になって、
「あれの母はまことに母として娘を愛おしんでいるとは言えぬ。山を下りられぬ夏の間の寂しさを慰めるために手元から放さぬだけなのだ。・・・人の女童が気に入りの雛を愛でるのと変わらぬよ。」
「そうですか・・・」
晴明は、心持ち視線を伏せたが、次の瞬間、その白い顔がさっと緊張した。
「晴明どの!」
朱呑も何か感じ取ったらしい。
晴明は夜空に向けて白い手をしなやかにさし上げた。
すると、闇の中から溶け出してくるように、黒い翼の小鳥が晴明の手に舞い降りた。
「宴の松原―」
晴明はうなずくと、小鳥に何やら囁きかけ、再び夜空に放った。それから朱呑に向かって、
「今宵のところはわたくしにお任せ下さい。我が手に負えぬようなことになりましたら、お力をお借りするようになるやもしれませぬが」
「おお、あの女に言うておけ。」
朱呑は、月に光る刃を思わせる口調で言った。
「博雅どのの髪の毛ひとすじでも傷つけたら、今度は都中の鬼がその仇を討ちに参るとな」
その夜、博雅は宿直であったが、冴え冴えとした冬の月に誘われたのと、一人で物を想いたい気分であったので、寒さを押して清涼殿を出た。
葉二を取り出して唇にあてる。
寒さにかじかんで動かぬ、ということを知らぬかのように、博雅の指はしなやかに動き、葉二は妙なる音色を凍てつくような冷気の中にやわらかく紡ぎ出した。
そぞろ歩くうちに、宴の松原へ出た。
何曲かを吹き終えた時、博雅は急に気配を感じて振り返った。
「―!」
思わず叫び声を上げるところであった。
すぐ背後に雪虫の母である女が立っていたのだ。
「あなたは―」
2、3歩後ずさった博雅は、落ち着こうと大きく息を吸い込んだ。
しかし、女は寂しげに微笑んで佇むばかりで、これまでとは様子が違った。
「安心なさい。今のような笛を聴かされては、直ちにそなたの命を奪うことはできぬ。」
命を取らぬ、と言われ、博雅は少し肩の力を抜いた。それから、静かな中にも凛とした口調で問いかけた。
「ならば、こたびはわたくしの言に耳を傾けて頂けますか?」
何を言われるかは察しがつくらしく、女は不快げに、かすかに眉をひそめた。
「娘御は人として都に育ち、人として都で生きることを望んでおられます。それに、寂しい山奥で人としての喜びや悲しみを知ることもなく、ただ老いてゆくというのは、いかにもお気の毒ではありませぬか。」
毅然と頭を上げた博雅の瞳に、冴え冴えと月の光が映っている。
「これまでの年月で、母と娘としての時は十分に過ごされたはず。どうぞ、娘御を自由にしてさし上げて下さい。」
女は、博雅の瞳の中の月に魅入られたかのように、見つめ返していたが、力なくかぶりを振った。
「なぜじゃ、なぜなのじゃ。」
頭を振りながら、ずりずりと後ずさる。
「わらわにはあの子しかおらぬ。なのに、何故にそなたたちはわらわから娘を奪おうとするのじゃ。」
心なしか、風もないのに、女の黒髪がゆらゆらと動いているようだ。
「お方さま、お方さまは雪虫どのを愛おしいと思っておられるのでしょう。」
「当然ではないか」
「ならば、娘御の御ためを第一にお考え下さい。」
博雅は語気を強めた。
「娘御の意をないがしろにして、ただただ手元に置きたいと言うは、まことの親の愛とは言えぬのではないでしょうか。」
「黙りゃ!」
女は聞きたくないというように両手で耳を覆った。女の髪がくねくねと動き出しているのは、月明かりの下でも明らかであった。
博雅はただならぬ気配を感じて口をつぐんだ。
その時、
「お母さま!」
青い闇の中から白い影が走り出てきた。
「おお」
「雪虫どの!」
白い袿姿の雪虫が、博雅を庇うように、母との間に割って入った。気配を察して後宮を抜け出してきたものらしかった。
「そなた・・・」
女の髪がすうっともとに戻った。
「お母さま、もうお止め下さい。博雅さまは何の関わりもないお方ではございませぬか。」
「関わりがないと?」
女の紅い唇の端が皮肉に吊り上がった。
「そなたが母のもとに戻ってくれぬのは、その男のためではないか。」
「博雅さまのためではございませぬ。」
雪虫は哀願した。
「幾度も申し上げたではないですか。わたくしは、都のお父さまの元で、人として生きてゆきたいのでございます。・・・丹後の山で、鬼の娘として暮らすのは、もう・・・」
「偽りを申すな」
女は苦々しげに、
「丹後での、母との暮らしに何の不足がある。食べる物も着る物も何も不自由させてはおらぬであろう。」
「いいえ」
雪虫は強くかぶりを振った。
「お母さま、人というのは、食べる物、着る物に不自由せぬから生きてゆける、というものではないのです。さまざまな人々と触れ合い、喜びや悲しみを分かち合ってこそはじめて生きていると申せるもの。・・・そして、わたくしは人でいたいのでございます。」
「愚かなことを申すでない。そなたは全き人ではない。そなたの父もそれをよく知っているはずじゃ。並みの人と同じように生きてゆけるものではない。そこな男とて―」
女は博雅を暗い眼差しで見つめた。
「そなたが鬼の血を半ば引くからとて、いずれはそなたを疎んじるようになるであろうよ。」
雪虫は刃物で刺されたような顔になって黙った。
しかし、博雅は母子のやり取りをよく聞いていないようだった。何か思い悩むように視線があらぬ方へさ迷っている。
「さあ、母と共に丹後へ帰ろうぞ」
母は娘に向かって手を伸ばした。
「お母さま、お願いでございます」
雪虫は、半ば泣きながら懇願した。
「参らぬか!」
女の髪が再びゆらゆらと蠢きはじめた。
黒い色が銀白色に変じ、ざわざわと逆立つ。
目玉がせり出して金色に変わり、唇が大きく裂けて鋭い牙が現れた。
「母と共に参るのじゃ!」
長く鋭い爪を生じ、枯れ枝の如く節くれだった腕を突き出し、雪虫の体を掴もうとする。
「雪虫どの、下がられよ!」
はっと我に返った博雅は、雪虫の腕を引いて背中に庇った。
「貴様は死ねい!」
鬼は腕を振り上げ、その爪で博雅の顔を引き裂こうとした、その瞬間、
びしっ!
宙空より矢のように降りて来た黒い鳥が、鬼の腕に鋭い嘴を突き立てた。
「ぐがっ!」
傷ついた腕をつかんで鬼が身を引くと、鳥はふわりと宙で身をかわし、さしのべられた男の白い手に舞い降りた。
そしてすうっと姿を消した。
「晴明!」
博雅の顔がぱっと明るくなった。
「おのれ、安倍晴明か・・・」
鬼は唇をきつく噛み締めた。牙で破れた唇から血が流れる。
晴明は、すっと博雅の前に立つと、静かな声で言った。
「先ほど、朱呑童子どのとお話をして参りました。」
「朱呑と・・・」
「博雅の髪の毛ひとすじにでも傷をつけたら、母御といえどもその仇をとりに参るご所存とか。」
「何・・・」
「これ以上博雅に手出しをなさると、人ばかりでなく、都中の鬼を敵にまわすことになりましょう。・・・もう、お引きなされませ。」
「ええい、聞かぬわ!」
鬼は傷ついていない方の腕をぐいと突き出し、晴明の狩衣の衿元をむんずと掴んだ。
そして恐るべき怪力でぐいと引いた。
不意をつかれてのことであったか、晴明の体はあっさりと宙に浮き、振り回され、投げつけられて、背中から立ち木に激突する。
「晴明!」
雪虫の手を引いて、離れた木陰に導いていた博雅は、はっとして振り返った。
晴明は立ち木によりかかえるような姿勢で、目を伏せ、ぐったりとして動かない。
「口ほどにもない!」
鬼は勝ち誇って叫び、晴明の前に立つと、
「止め!」
長い爪を振り下ろそうとした、が、
「晴明!」
無我夢中で駆けてきた博雅が、駆けてきた勢いのまま、脇から鬼に体当たりした。
「何!」
思わぬところからの攻撃に、鬼の体は大きく跳ね飛んだ。
自分も勢い余って地面に倒れた博雅は、しかしすぐに起き上がった。
晴明の前に走っていき、その前に膝をついて肩を掴んだ。
「しっかりしろ、晴明!」
呼びかけて揺さぶったが、晴明は目を開けない。
「晴明!」
博雅は半泣きである。
その時、雪虫が悲鳴を上げた。
「博雅さま!」
はっとして博雅が振り返ると、鬼が再び立ち上がろうとしていた。
「おのれ、小賢しい・・・」
鬼の額がみしみしと波打ったかと思うと、にゅうっと二本の角が生えた。
「死ね!」
風のようにこちらへ向かってくる。
博雅は、晴明を庇うように鬼の方へ向き直った。
きっとして見据えてくるその瞳を、そこに映った月の光もろとも切り裂くべく、鬼は爪を振り下ろした。