振り下ろされた鬼の爪が鼻の先まで来たと思った瞬間、博雅は誰かに肩を掴まれ、強く引かれた。
次の瞬間には、晴明の左腕に抱え込まれていた。
はっとして見ると、晴明は右腕をさしのべ、鬼の額に人差し指と中指をぴたりと押し当てている。
それだけで、鬼の動きは封じられていた。
晴明の紅い唇の端がすうっとつり上がった。
その笑みに、鬼は心底恐怖した。
―この男・・・!
晴明はすばやく鬼の額に印を描き、呪を唱えた。
すると、結んだ印が鋭い光を発し、鬼の体が弾き飛ばされた。
激しく地面に叩きつけられた鬼は、やがて蠢き始めた時には、髪も顔も腕も、もとの女のそれに戻っていた。
「晴明・・・」
安堵したように潤んだ目で見上げてくる博雅に、柔らかい微笑を向けてから、晴明は立ち上がった。
「諦めなされ、雪のお方。もはやあなたには勝ち目はない。」
力を失った女は、地面にうずくまったまますすり泣いた。
「なぜじゃ、なぜなのじゃ。わらわには娘しかおらぬのに。なぜ、皆でよってたかって取り上げようとするのじゃ・・・」
博雅は、しばらく女の肩が震えるのを見つめていたが、ややあって、何かを心に決めたように、深く息を吸った。
立ち上がると、雪虫の傍に寄り、その手を取った。
雪虫が不審気に見返すのに軽くうなずいて見せてから、その母に向かって声をかける。
「お方さま、この博雅が誓いましょうぞ。」
女は顔を上げて、博雅を見た。
博雅のよく透る声が、月の光の下に響いた。
「娘御は、博雅が終世賭けてお守りしましょう。」
「博雅さま!」
雪虫は、驚いて博雅を見上げた。博雅は、穏やかな表情でうなずいてから、
「毎年、雪の降る折りには会いに来られればよいではありませぬか。離れて暮らしていても、親子であれば縁が切れるということはないはずです。」
しかし、女は半身を起こすと、苦い顔で言った。
「浅はかなことを。その娘は全き人ではない。半ばは鬼ぞ。人であるぬしと添い遂げられるわけがなかろう。やがては、疎んじる心が強くなり、捨ててしまうに決まっておるわ。」
「それは違う」
博雅は凛とした声で、
「人とて鬼と化すことがある。人であろうと、鬼であろうと、雪虫どのは清らかで澄んだ心を持たれたお方。それで十分ではありませぬか。」
その曇りのない声、表情、態度に、女は気圧され、押し黙った。
ややあって、すすり泣きを始めた。
「でも・・・わらわは一人になってしまう・・・」
赤子のように切なげに泣きじゃくった。
雪虫は、夢ではないかとぼんやりとした表情で博雅の言葉を聞いていたが、母の泣き声ではっと我に返った。
泣き続ける母のさまと、月光を受けた博雅の横顔を見比べ、それから、ふと晴明に目をやった。
しばらく、その月の光が人と化したかのような美しい立ち姿を見つめていたが、やがて面を伏せ、己れの手を取っている博雅の手をぎゅっと握り締めた。
「・・・?」
博雅が不審気に見返すと、雪虫はその美しい瞳を心に焼き付けるようにじっと見つめ、それから、不意に博雅の手を振り解いた。
「・・・雪虫どの?」
何事かと驚く博雅に、雪虫は丁寧に頭を下げた。
「博雅さま、わたくし母の許へ参ります。」
「何・・・!」
「博雅さまがわたくしと添うて下さるとおっしゃって頂いただけで、雪虫は幸せです。・・・鬼の血を引く娘でもかまわぬ、と言って頂いただけで・・・」
雪虫は声を詰まらせた。
「もう、思い残すことはございません。」
「しかし、それでは、あなたが・・・」
困惑してなおも手をさしのべる博雅から逃れるように、雪虫は後ずさった。
「博雅さまには、博雅さまを大切に思い、支えて下さる方が大勢おありになる、でも」
母の方を見やり、
「母にはわたくししかいないのです。」
そして、母の傍らに寄り添い、そっと肩を抱いた。
「お母さま、我儘を申しました。一緒に丹後へ参りましょう。」
「おお」
女は娘にすがった。
「母の許へいてくれるか」
「はい」
雪虫は深くうなずくと、晴明の方を見た。
「晴明さま、博雅さまをよろしくお願いします。」
晴明が答えようと口を開くより先に、くるくると小さな雪嵐が起こって、母娘の体を包んだ。
「雪虫どの!」
思わず駆け寄ろうとした博雅を、晴明が後ろから抱きとめた。
雪嵐はすぐに収まり、後には、煌々と照る望月の下で呆然とする博雅を抱えた晴明が佇むのみであった。
その後、梨壷更衣の女房の一人が宴の松原で姿を消した、と大騒ぎになった。
不審な男に声をかけられて松林の奥に連れて行かれただの、バラバラになった女の手足が見つかっただのと、まことしとやかな噂が流れたが、その女房のである伊予守が、娘は急な病で宿下がりをしたと明らかにしたこともあり、騒ぎはいつのまにか立ち消えになった。
伊予守の屋敷には、安倍晴明からの書状が届いていた。
都が再び大雪に見舞われたのは、それから半月ほど経ってからであった。
雪が上がった頃を見計らい、所用で広沢の遍照寺を訪れた晴明は、寛朝僧正に博雅が来ていることを告げられた。
「毎月の命日には必ず見えられて、かの姫の墓前をお訪ねなのですよ。」
寛朝は、従弟に対する思いやりのこもった静かな声で言った。
「徳子どのの・・・」
この日は晴明も来ると聞き、僧房の一つで待っていると寛朝は告げた。
教えられた房へいくと、そこは戸がすっかり開け放たれ、しんと冷え切っていた。
博雅は、こちらに背を向けて廂に座り、雪を被って真っ白になった庭を眺めていた。
晴明が近づくと、香の薫りで気づいたのか、振り返らないまま声をかけて来た。
「晴明」
晴明は足を止めた。
「おれはな、やはり徳子どののことが忘れられぬのだよ」
「・・・。」
「あの時は、咄嗟にああ言うたが、それが本心から雪虫どのを愛おしく想うてのことなのか、それとも、ただ余りにあの方が不憫であったからだけのことなのか、おれにもわからぬのだ。心の奥で、心底愛おしいと想うておるのは、やはり徳子どのであったような気がするのだよ。」
博雅はうなだれて、首を振った。
「雪虫どのは、おれのそんな半端な心を悟って、母ぎみと共に行かれる決心をされたに相違ないよ。・・・おれは、徳子どのを生成りにしてしまったばかりか、雪虫どのも救うてさし上げることができなかった・・・。」
しばらく間をおいてから、ぽつりと言った。
「おれは、ひどい男だな。」
それまで黙って博雅の語るに任せていた晴明は、そこで、博雅に歩み寄り、傍らに腰を下ろした。
「それは違うぞ、博雅。おまえはひどい男などではない。」
博雅は顔を庭に向けたままだ。晴明は構わず、語りかけた。
「雪虫どのは、己れが鬼の娘であるがゆえに人に疎んじられることを、それは恐れておられたのだよ。それなのに、おまえは、鬼の血を引くことなど問題ではないと言い切った。・・・雪虫どのは、どれほどうれしかったであろう。」
「・・・」
「雪虫どのはな、己れのさだめに立ち向かう決心をされたのだ。鬼の娘として生きねばならぬ、というさだめを、押し付けられるのでも、逃れるのでもなく、進んで受け入れることでな。おまえはちゃんと雪虫どのを救ってさし上げているのだよ。」
博雅は、そこで初めて晴明を見た。目には涙がいっぱいに溜まっていた。
「徳子どののこととてそうだ。鬼にならんとしたは、あくまで徳子どのがご自分で望んだことだ。おまえは、真の鬼とならんとした徳子どのの、深く傷ついたお心を救ってさし上げたではないか。」
晴明は、博雅の肩に手を置いた。
「この俺が一番よく知っている。・・・おまえは、ほんとうによい漢だ。」
博雅は黙って晴明を見つめた。
見つめる瞳から、すうっと涙が零れると、博雅は晴明の肩に頭を預けた。目を伏せ、声をたてず、ただ静かに涙を流した。
「それに、雪虫どのは生きておられるではないか。生きてさえいれば、いずれはよき方へさだめが変わることもあるだろうよ。」
晴明が優しい声で囁くと、こくんと一度うなずいた。
微かに震える博雅の肩を抱きながら、晴明がふと視線を上げると、雪が再び降り始めていた。
結
正直、雪虫は結構気に入っていた(自分が好きなタイプの女の子にキャラを作った)ので、この結末のつけ方は我ながら少々辛かったです。
でも、博雅とくっつけちゃったら、その後どうすんだ、っていうのもあるし、
オフラインであーゆーコトやこーゆーコトをやってる身としては、ちょっとした自己矛盾を感じたりもするし。(^_^;)
まあ、私の中では博雅の4人の子を産んだのは彼女!という気がちょっとあります。(笑笑)
でも、考えてみれば、また朱呑さまにかどわかしてきて頂けば(爆)いいわけだから、機会があったら、また登場させるかも。
主だった資料では、博雅の妻とか博雅の子の母、というのは不詳なので、あるいは、皇族、藤原氏、源氏といった名の知れた氏族の出身ではない、言うなれば受領階級の女性なのかも、と推測して雪虫の設定を作ってみたのですが、
ただ、コミックの9巻に登場する博雅の奥様の経歴が、藤原実頼女(藤原斉敏の異母妹)、母は藤原保忠の姉妹、といやに具体的なんで、岡野氏のことだから、博雅の妻の出自をどっかから見つけてきた可能性もあるんですよね〜。(出典、教えてくれないかなあ。いつも思うんだけど)
もしかしたら、あの源高明が実頼の陰謀で失脚させられる安和の変に博雅が巻き込まれた形跡がないので、あるいは実頼側と姻戚関係を結んでいたのかも、という推理からなのかもしれないけど。だったらやだなあ、博雅が政略結婚なんて〜。どーせ、政治的には大したことなかったんだから、好きな女性と添うていて欲しいですのう。