昼間の大雪が嘘のように晴れ上がって澄んだ夜空に、冬の月が冷え冷えと浮かんでいる。

博雅は、積もった雪をさくさくと踏んで、晴明の屋敷にやってきた。

「とりあえず、しばらくは雪の日には外出をせぬこと、護符を身から離さぬことだな。」

昼間のことを博雅が持ち出す前に、晴明は言った。

「近いうちに熊野へゆく用があるから、そこで、更に効き目の強い山霊封じの護符を頂いて来るよ。」

「すまぬな」

博雅はぽつりと言った。それから、黙りこくって酒を飲んでいたが、ややあって、

「なあ、晴明」

「何だ」

「こうしてこの冬は乗り切っても、次の冬が来てまた雪が降れば、雪のお方はまた娘御を連れ戻しに来られるであろう?」

「そうだろうな」

「そのたびに雪虫どのはおびえ、逃げ隠れせねばならぬ。それも実の母ぎみからだぞ?―お気の毒ではないか。」

「しかし、雪虫どのが母ぎみのもとに戻りたくないと思う以上、止むを得まいよ。」

「それはそうだが」

博雅は浮かぬ顔で、

「世をはかなんでおられるわけでもないのに、あのように若い女人が、寂しい山奥で、人と交わることもなく生涯を終えねばならぬというのは、いかにも酷い話だ。―その辺りのことを母ぎみにわかって頂いて、娘御をそっとしておいて頂くというわけにはゆかぬのかなあ。」

「雪虫どのが何度もお願いしたが、許してもらえなかったそうだぞ。」

「そうらしいな」

考え込んでしまった博雅に、晴明はふと声をかけた。

「博雅」

「何だ」

「おまえ、本当のところは気づいておるのであろう?なにゆえ、雪虫どのの母御がおまえを目の仇にしておるのか」

「・・・。」

ぐっと詰まった博雅は、ひどく困ったような顔をした。

「あのように、ご自分の胸の内がお顔に顕れてしまう方は、おれは他に一人しか知らぬな。」

「誰だ」

「おまえだ」

「・・・。」

博雅が黙っているので、晴明は敢えて言葉を継いだ。

「雪虫どのは、おまえのことを・・・。」

「わかっておる!」

博雅は怒ったように晴明を遮った。

「わかっておる」

少し小さな声で繰り返した。

「ならば、おまえはどうなのだ。雪虫どのを愛おしいと思うのか。」

「・・・。」

博雅はまたぐっと詰まった。

さんざん逡巡した挙句、小さな声で、

「わからぬ」

「・・・。」

「わからぬのだよ、晴明。雪虫どのは心の清らかな、美しいお方だ。おれの手で守ってさし上げたい、幸せにしてさしあげたい、と心から思う。おれなんぞのことを慕うて下さるとは、本当に勿体無いと思うし、できれば応えてさし上げたい。しかし」

少し大きな声で一気にそう言ってから、またすうっと声が小さくなった。

「しかし、一人の女人として愛おしい、恋しいと想う気持ちと同じかと言われれば・・・自信がない。」

「・・・よくわかるよ。」

晴明はうなずいた。

博雅は、恐らく、まだかの女(ひと)のことを想っているのだろう。

未だ、彼の笛を慕い、夜の闇の片隅に蹲る鬼の影と化した女(ひと)のことを。

その女(ひと)に博雅を縛りつけるつもりなどない、と言っても詮の無いことであることも、晴明にはよくわかっていた。

「おれは、どうすればよいのだろう・・・。」

博雅は、冬枯れの庭を見やり、ぽつりとつぶやいた。



翌日、更衣に召されて梨壷に参上した晴明は、用事を作って雪虫の局を訪れた。

折りよく、他の女房たちは、何やかやと用事で出払っているようである。

「昨日のこと、まことに何と申し上げれば・・・」

御簾越しでも、今にも泣きそうな顔であることがよくわかる。

「お気になさいますな」

晴明は優しく言い、前夜に博雅に与えたのと同じ指示をした。

しかし、雪虫はかぶりを振った。

「いいえ、晴明さま」

声に力があった。

「わたくし、決めましたの」

「決めた・・・?」

「わたくし一人のことでしたら、母から逃れるためならば、どんなことにも耐えようと思いました。でも―」

切なげな色が声に混じる。

「博雅さまを巻き込むことになってしまうなんて・・・」

それから、しゃんと背筋を伸ばして、はっきりした口調で言った。

「博雅さまの御身には替えられませぬ。わたくし、母の許に参ろうと存じます。」

晴明は、黙って御簾越しに雪虫の顔を見た。

慎ましやかな中に、揺ぎないものが宿っているのが、見て取れた。

「お待ちなさい。」

静かな声で言った。

「母ぎみの許へ戻ってはなりませぬ。」

「え・・・?」

雪虫は虚を衝かれた。

「なぜです?」

「有体に申し上げるならば、私としても博雅の身をこれ以上危険にさらすくらいなら、あなたを母ぎみに渡してしまってよい、と思っております。」

「・・・。」

「しかし、それでは博雅は傷つくでしょう。」

「博雅さまが・・・。」

「博雅は、あなたが寂しい山奥で一生を終えねばならぬというのは、いかにも酷い、その辺りのことを母ぎみにわかっていただくわけにはゆかぬか、と、こう言うていたのですよ。」

「博雅さまが、そのようにお優しいことを・・・。」

雪虫は、思わずほんのりと頬を染めた。

「もし、己れのために、あなたが犠牲となったと知れば、博雅はどんなに傷つき、嘆くでしょう。」

「・・・。」

「私が全力を尽くして博雅とあなたをお守りします。・・・自ら身を引くということはお考えなさいますな。」

晴明は淡々と、しかし有無を言わせない口調で言った。雪虫は困惑して眉をしかめたが、黙ってうなずいた。

晴明は、少し思案をしてから、口を開いた。

「雪虫どの、いま一つ・・・。」

「はい?」

「母ぎみがなにゆえ博雅まで狙うておられるのか・・・」

「・・・。」

「あなたが、博雅のことを慕うておられるからではないですかな。」

雪虫は軽く息を呑んで目を見開いた。

「・・・おわかりになりますの?」

「・・・わかりますよ。」

―わかりやすい、という点では似合いかもしれぬな。

晴明は内心苦笑しながら、真っ赤になってうつむいてしまった雪虫に、

「母ぎみは、あなたのお気持ちに気づかれて、博雅のためにあなたが去っていってしまったのだと思い込まれているのですね。」

雪虫はおずおずとうなずいて、

「わたくしが身の程もわきまえず、勝手にお慕いなどしてしまったばかりに、博雅さまにご迷惑をかけてしまって・・・。その一事だけでも、都から去ってしまいたい心持ちなのです。」

晴明は黙ってかぶりを振った。それから、

「博雅にお気持ちを打ち明けるおつもりは・・・」

「いいえ」

雪虫は侘しげに、

「このようなことになってしまった以上・・・。それに、わたくしのような女が、博雅さまのような貴いお方をお慕いするなど、余りにも分を越えておりましょう。」

高家の公達が受領の娘に通うというのは、さほど珍しいことではないので、雪虫が言うのは身分のことではなく、己れが半人半鬼の身である、ということなのであろう。

「父は、母のことをそれは愛おしく思っていたので、妖しと知ったからといって、直ちに母を厭わしく思うことはできなかったようですの。」

雪虫はふっと吐息をついた。

「ですけど、やはり恐れてはいたようです。母も、母の血を受けたわたくしのことも・・・。」

とりわけ冷たくあしらわれたわけではない。しかし、どこかよそよそしかった。

「事情を知らぬ祖母や叔母たちは、わたくしを心底可愛がってくれますが、丹後にも従っていた舎人や女房などはうすうす事情を察しているらしく」

とりわけ、雪虫が母のもとから戻ってきてからは、陰で「お嬢さまは鬼の生んだお子らしい」と囁く声が聞こえてくることが、しばしばあった。

「父にねだって宮中に出仕したのも、遠くからでも博雅さまをお見かけする折りがあれば、と思ったこともありますが、何となく屋敷にいづらくなって・・・。」

「よくわかりますよ。」

晴明は、深い共感を込めてつぶやいた。

雪虫は膝の上で重ねた、己れの白い手に目を落とした。

「兄が、博雅さまは天に愛でられた貴いお方だと申しておりました。そのようなお方に、わたくしのような鬼の血の混じった卑しい女など、とうていふさわしいとは言えぬでしょう。」

晴明はかぶりを振った。

「博雅は、そのようなことを意に介する漢ではありませぬよ。」

半ば鬼と化してしまった女(ひと)でさえも、愛おしいと言って抱きしめることができる漢だ。

―たとえ、晴明が妖物であっても、この博雅は晴明の味方だぞ。(※)

そんな声がふと耳のそばで聞こえたような気がした。

しかし、雪虫は寂しげに微笑んで言った。

「そうでしょうか?」



続く


※「蟇」『陰陽師』文春文庫p.201より引用



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