そんなことがあってから、何日かが過ぎた。

その日、帝は、源博雅ら数名の公達を下鴨の社に遣わし、楽を奉納することになっており、折りしも、父親の病平癒を下鴨の神に願いたいと申し出ていた梨壷更衣の使いをして、数名の女房がこれに随行することになっていた。

その前夜、屋敷を訪れた博雅に、晴明は一枚の護符を与えた。

「先だって、梨壷さまの御用で後宮に呼ばれた折り、これと同じ物を雪虫どのにも渡しておいた。」

「何だ、これは」

「行者が山に入って修行する時に山の精から身を護るために身につけるものだ。雪虫どのの母御もその類の妖しであろうから、それで身を護れるはずさ。」

「ふうん」

「空の様子を窺っておると、どうも明日あたりまた雪が降りそうなのでな。かの雪の御方が下りてこられるやもしれぬ。」

「そうか、すまぬ。」

博雅は、複雑な顔で護符を懐に収めた。それから、寂しそうに言った。

「あれ以来、宮中でお会いしても、雪虫どのはおれを避けられるのだよ。」

「おまえにすまないと思うておられるのであろう。」

「しかし、雪虫どのに咎があるわけでもなし、何より、あの折りおれの命を救って下さった御恩がある。控えめでやさしいお方だから、心苦しく思われるのも無理もないことなのであろうが、そのように気に病まれないで頂きたいものだ。」

「そうだな」

晴明はどこか上の空で相槌を打ち、瓶子を手に取った。

「飲まぬか」

「おお」

博雅は盃を差し出した。



晴明の見込みはあたった。しかも、何とも間の悪いことに、一行が内裏を出る頃には粉雪がちらちらと風に舞うくらいであったのが、下鴨の社で、参詣と奉納を終え帰途につく途上、ちょうど鴨川を渡り終えた辺りで、急に激しく降りだしたのだ。

降り積もる雪で牛車がようよう進めなくなり、随行の舎人たちが右往左往する。

博雅を含めた公達の幾人かが、雪の舞う中、車を降り、額を寄せ合って相談した末、

「とりあえず内裏に知らせて輿を寄越してもらおう。我らは徒歩にても、女房がたに歩いて頂くわけにはゆかぬ。その上でこの近くの寺ででも雪がやむのを待たせてもらうことに致そう。」

ということになった。これに従い、幾人かの舎人が内裏と近在の寺に遣わされる。

これを待つ間、博雅は女房たちの乗る車に近寄って声をかけた。

「ご様子はいかがでしょう?」

車の中から小さく息を呑む声がした。後ろの簾が小さく開けられ、雪虫の顔が覗いた。

「・・・博雅さま・・・」

「雪虫どの」

更衣から使わされた女房たちの中に雪虫がいたのである。

「ご様子はいかがですか?」

「わたくしはこのようなお天気には慣れておりますけれど・・・」

雪虫は、寒さと心細さに身を寄せ合って語り合っている同乗の女房たちを心配そうに見やった。

「先ほどこの近くの寺に使いした者が、かの寺の僧と共に戻って参りまして、支度を調えてお待ち下さるとのことでございました。あとは内裏よりお輿が―」

その瞬間。

ごうと風が巻き起こり、簾を大きく舞い上げた。

反射的に振り返った雪虫はひっと息を呑んだ。

つい先ほどまでいたはずの、同乗の女房たちの姿がない。

車の中はがらんとして雪虫一人である。

「博雅さま!」

博雅の方を見た雪虫の顔が凍りついた。

風にあおられて思わず腕で顔を覆った博雅の背後には、白く雪が渦巻いて、何も見えなかった。ただ―。

「・・・お母さま・・・」

博雅の肩の辺りにぼうっと浮かんだ女の顔。

髪と瞳が黒く、唇は紅かった。

白い指が博雅の肩を掴む。

博雅は、弾かれたように振り返った。

紅い唇がにいっと笑った。

「死ね」

そう囁き終わるか終わらぬうちに、真っ白な息を博雅の顔に吹きつけようとした、が、

バシィッ

鋭い音がして、女の体が跳ね飛ばされた。

「おのれ、護符を身につけておるな!」

雪の渦の中にぼんやりと浮かんで、女は歯噛みをする。紅い唇から尖った牙が覗いた。

「―!」

博雅は袍の上から護符を収めたところに触れた。

「晴明・・・!」

晴明に護られていると思うと、安心感と共に力が湧いた。

雪の中に漂う女を見据え、何か言おうと口を開いた。

しかし、女の目は博雅から車の中に向けられていた。

「娘や・・・」

右腕を雪虫の方にさしのべた。袖が風にあおられ、白い腕が露わになる。

「母と共に丹後へ帰りましょうぞ。」

雪虫はおびえて激しくかぶりを振った。

「・・・いや・・・」

博雅は、雪虫を己れの背に隠すように、車の方に後ずさる。

「雪のお方さま」

毅然と頭を上げ、よく透る声で呼びかけた。

「娘御は人として生きることを望んでおられます。どうか、雪虫どのを解き放ってさし上げて下さい。」

「黙れ!黙れ!黙れ!」

女は、凄まじい形相で喚いた。

黒髪がさわさわと逆立ち、見ている間に老婆のような銀色に変わる。

黒い目がつり上がり、せり出した眼球が金色に変じた。

博雅は息を呑んだ。

「博雅さま、お逃げ下さい!」

雪虫は、悲鳴のように叫んだが、博雅は、彼女を庇ってその場に踏みとどまる。

「砕けてしまえ!」

女は叫んで、両腕を振り上げた。

その途端、

金色の稲光が空を切り裂いた。

「ぎゃあああっ!」

女の衣がめらめらと燃え上がった。

「おのれ!また、あの陰陽師か!」

女は炎に包まれて、もがきながら雪嵐の中に姿を消した。

そして、いつの間にか、博雅の隣に晴明が立っていた。

「思うた以上に力の強い妖しだな。」

難しい顔をして、形のよい顎に指をあてている。

「晴明、いつの間に・・・」

「思ったより早く雪が降り出したのでな。様子を見に来たのだ。」

博雅に答えてから、晴明は車の中の雪虫を見た。

「母ぎみは思った以上に強い力をお持ちですな。先日お渡しした護符では、あなたと博雅を守り切れぬかもしれませぬ。もっと別の手立てを考えなくてはなりませぬな。」

「・・・申し訳ございませぬ・・・」

雪虫はうなだれて、か細い声で答えた。

晴明は、表情のない目で彼女を見やってから、博雅に、

「ここはかのお方が作った結界の中だ。おれが結界を解けばもとのところに戻っておる。」

「おまえが急に現れたら、みなが驚くであろうなあ。」

博雅が言うと、晴明は笑いを含んだ目で、

「おれはこのまま陰態を通って屋敷に戻るよ。」

「何だ」

博雅は、少しつまらなそうな顔になる。

「ははは」

晴明は軽く声を上げて笑い、

「では、ゆくぞ」

右の人差し指と中指を口もとにあて、小さく呪を唱えた。



続く


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