そんなことがあってから何日かが過ぎた、よく晴れた日の昼下がり。

土御門の安倍晴明の屋敷を、徒歩で訪れた女があった。

応対に出たのは、常磐という初老の女の姿をした式で、これに導かれてきた客の女は、晴明の見知った客であった。

「あなたは、確か朱呑童子どのの妹御・・・」

「はい、雪虫でございます。」

勧められて、高麗縁の畳に座した雪虫は、さし向かいに腰を下ろした晴明に、丁寧に頭を下げた。

「宮中に出仕なさっていると博雅が話していましたが」

「まあ、博雅さまが?」

雪虫の白い顔にほんのり紅がさす。

晴明は優しくうなずいて、

「あなたに御恩返しをする折りがあるだろう、と大層喜んでいましたよ。」

「まあ、恩返しだなんて」

雪虫はますます赤くなったが、ふと、

「でも、わたくしがどういった縁で更衣さまのお傍に上がることになったかご不審でしょう?」

晴明は肯定も否定もせず、

「差し支えがおありならば・・・」

「いいえ」

雪虫はかぶりを振った。

「わたくしは朱呑童子を兄と呼ぶ身ではございますが、父は伊予守清原治範と申します。」

「ほう」

そう言えば朱呑童子とは父違いで、人と鬼との間に生まれた子である、という話であった。確かに並みの鬼であるなら、人と同じように日の光のもとで歩き回るというのは、到底考えられぬことであろう。

そして、受領の娘ならば、女房として宮中に出仕するのには何の不思議もない。

「それで、わたくしにどのような御用でしょうか。」

「はい」

雪虫は居ずまいを正した。

「実は、晴明さまのお力をお借りしたくて、このたび宿下がりがかないましたゆえ、ぶしつけとは存じましたが、こうしてお訪ねいたしましたの」

目立つ女車などを用いず、単身徒歩で訪問したのは、人の目を引かぬよう、という配慮であろう。

「わたくしの力を?」

「はい、実はわたくしの母のことなのでございます」

「母ぎみの・・・」

父は人である、ということは、母が鬼の眷属ということになる。

そうして、雪虫が語ったのは、次のような物語であった。



清原治範は、30年ほど前、丹後の国司に任ぜられ、かの地へと赴いた。

赴任した最初の秋、公用で領内を旅していたところ、山中で突然の吹雪に見舞われた。

治範は古くから仕えていた従者とただ二人であったが、幸い小さな樵小屋を見つけたので、そこへ難を避け、吹雪が止むのを待つことにした。

従者が囲炉裏に起こした火を、二人で囲むうちに、いつしか日も暮れ、夜も更け、二人ともうとうとし始めた。

そうして、夜半も過ぎた頃、治範は余りの寒さに目を覚ました。

火は消えてしまっており、小屋の中は真っ暗だった。

が、目を凝らしていると、小屋の中央に白い人影がぼおっと立っているのが見えた。

―何だ?

戸が開け放たれていたので、目が慣れてくると雪灯りでそれが白い衣を纏い、黒い髪を長く垂らした女であることがわかった。

そのまま見ていると、女は、うずくまって眠っている年老いた従者の上に屈み込んだ。そうして、はあっと真っ白な息を吹きかけた。

―何と!

息を吹きかけられた従者は、見る見るうちに白く凍り付いていった。

やがて、女は身を起こし、ゆっくりと治範の方を振り向いた。

予期に反して、女の白い顔は若々しく優しげであった。

治範は恐ろしくてならず、逃げ出したいのに、声すらも出ない。

女はそろそろと近づいて屈みこんでくる。

そして、じっと治範の顔を見つめていたが、そっと指先で頬に触れてきた。

雪のように白い指であったが、思いがけぬことに、ほんのりと温もりがあった。

女はしばらくそうしていたが、やがて治範の顔から指を離し、身を起こした。

そして滑らかな声で言った。

「お若いお方、あなたの命を取るのはやめておきましょう。」

女は柔らかい表情で言った。

「ただし、今宵のことは決して人には話してはなりませぬ。もし、どなたかに話してしまったら、その時こそお命を頂きに参りますえ」

そうして、くるりと背を向け、小屋の外へ姿を消した。

治範は恐ろしさの余り、そのまま気を失ってしまった。まもなく夜が明け、戻らない主を案じて探し回っていた家人や国衙の役人たちが治範主従を見つけたが、かわいそうに、老いた従者は既に凍え死にをしていた。治範もひどく凍えていたが、命には別状がなかった。

その夜のことは、治範自身も夢か現か判然としないところであったし、傍目には、山で吹雪に遭って、老人が命を落とし、若者が助かったという、痛ましくはあるが、不思議のない話であったので、周囲にも格別に問い質されることもなく、誰に語るともないまま、時が過ぎた。

そのうちに治範は、土地の女のもとに通うようになった。

透き通るように色の白い、育ちのよさげな女であったが、早くに家族を失い、天涯孤独の身と聞き、哀れに思った治範は、女を屋敷に引き取って住まわせることにした。

二人の仲はまことに睦まじく、まもなく一人の娘にも恵まれた。

そうして瞬く間に、治範の任期の終わる、4年目の冬を迎えたのである。

治範は、当然のように女と幼い娘を都へ連れてゆくつもりであった。

しかし、とある吹雪の夜のことであった。

塗籠で、女と火桶を囲んで語らっていた治範は、風の音に耳を澄ませながら、ふと4年前のあの日のことを思い出した。

「このような風の吹く晩には思い出すなあ。」

そうして、何気なく、夢とも現ともつかぬ、雪の妖しと出会った夜の出来事をぽつぽつと女に語ったのである。

ところが、治範が語り終えた途端、女はよよと泣き崩れた。

「とうとう話してしまわれたのですね。あれほど人に話してはならぬ、と申しましたのに」

そうして、顔を上げた女の白い顔をまじまじと見た治範は、すぐに女が告げるまでもなく気づいた。

「わたくしは、その時の妖しでございます。」

「何と」

すっと立ち上がった女は、悲しげな目で治範を見下ろした。

「本来ならばあなたのお命を取らねばならぬところ。しかし、娘のために命はお助けいたしましょう。わたくしは、もうここにはおられませぬ。娘を頼みます。」

言い終わるや否や、女は塗籠から走り出た。後を追った治範は、女が妻戸を開け放ち、風のように吹雪の中に消えてしまうのを、呆然と見送るよりほかはなかった。

治範は、女をたいそう愛おしく想っていたので、その正体が妖しであったということよりも、自分から去って行ってしまった」ことを悲しんだ。そして、残された娘を連れて泣く泣く都へと帰っていったのである。



「その娘がわたくしなのでございます。」

雪虫は言った。

「なるほど」

晴明はうなずいた。一見落ち着き払っているようだが、博雅がその目を見れば、ひどく興味を引かれていることがすぐにわかっただろう。

つい何日か前に、博雅に語って聞かせた雪の妖しの話が、まことのことであるというのだ。

「都に戻った父は、まもなく別の地の国司に任ぜられ、わたくしは父の実家で祖母と叔母によって育てられました。」

治範は、娘の母は丹後で病死した、と家の者には説明していたので、娘は数えで十二の年までは、己の母が妖しであることは知らされていなかった。

そして、年が明ければ十三になるという、ある年の冬、

「母がわたくしを連れに来たのです。」

雪虫の母のような妖しは、都に大雪が降ると、雪に誘われて都まで降りて来たりもすると言う。

我が子恋しさに耐え難くなった女は、そんなふうに都に大雪が降った夜、治範の屋敷を訪れ、娘を連れ去ってしまったのである。

そうして、雪虫は、丹後の山奥で母と二人きり、ひっそりと成人した。

母は娘に優しかったし、丹後の山の四季の移ろいに心慰められはしたが、華やかな都での生活から突然人里離れた山深くに拉し去られた身には、よそ人の訪れることとてない山の生活は、余りにも寂しかったし、耐え切れぬほど退屈だった。

しかも、母は、娘が山から一歩たりとも出たり、また山へ入ってくる人と話をすることも許さない。

雪虫の焦燥は、年ごとに募る一方であった。

そんな時現れたのが朱呑童子であった。

朱呑は、ある年の冬、やはり大雪に誘われて都へ下りた母が、都の鬼と交わって生んだ子である。

丹後に母を訪ねた父ちがいの兄に、雪虫は自分を都へ連れて行って欲しい、と訴えた。

すると、朱呑は面白そうな顔をして、雪虫が母から伝えられた、人や獣が負うた傷を癒す力を、時々自分のために使うてくれるのなら、都の父の屋敷へ連れて行ってやる、と約束した。

「それが今年の春のことでした。」

雪虫は言った。

15年以上も前に神隠しにあった娘が突然帰ってきたので、治範の屋敷では驚き、訝しんだが、当の治範があっさり娘と認めたので、家の者たちも「鬼にさらわれ、どこかの山で育てられた。」という娘の説明を受け入れたのである。

「父は母の仕業と気づいていたようですわ。」

「そうでしょうな」

晴明はうなずき、

「この夏、博雅を救って下さったのは、そうしたわけなのですね。」

「はい」

淡々と語り続けていた雪虫は、そこでほんのりと頬を染め、目を伏せた。

「それまでも、月の美しい夜には、兄が屋敷から連れ出してくれて、朱雀門の望楼で博雅さまのお笛を聴かせて頂いたのです。」

「そうでしたか」

「ですので、あの時は何としてもこの方のお命をお救いしたくて・・・」

雪虫は目を上げて、開け放たれた半蔀から見える空へと目をやった。

よく晴れていた空を、いつの間にか重い灰色の雲が覆っている。

「して、母ぎみのことでわたくしの力を借りたいこととは?」

晴明に促され、雪虫は我に返ったように軽く目を見開いた。

「はい」

ふっとその顔に影がよぎる。

「わたくしを母から守って頂きたいのです。」

「守る、とは?」

「母は、夏の間は山から下りてくることはございません。しかし、雪の季節となり、都に大雪が降るようになりますと、またわたくしを連れに来るに相違ありません。」

しかし、癒しの術の他にはこれといった力のない雪虫には、母から身を守る術はない。

「母ぎみとお話なされたらいかがです?都の父ぎみのもとで人として暮らしたい、と」

「幾度も申しましたわ。でも、母は聞き入れてはくれませぬ。何としてもわたくしを手放したくないようなのです。」

晴明は少し困ったような顔をした。何と言っても、親子の間のこと、他人である自分が無闇に立ち入るのはためらわれた。

「朱呑童子どのは・・・」

「兄にとりましても実の母、わたくしをさらってくるところまでは面白がっておりましたが、正面をきって母と争うというのは―」

やはり気が進まぬ、ということなのであろう。

「実は晴明さまにご相談するよう勧めたのは、兄なのです。」

「なるほど」

うまく厄介ごとを押し付けられたな、と晴明は内心苦笑したが、

「わかりました。何と申しましても、あなたには博雅を救っていただいた御恩がありますし、限りある身であるあなたのお気持ちを大切にして差し上げるべきかもしれませぬ。」

「では、お力を貸して頂けるのですか?」

雪虫の問いに、晴明はうなずいた。

「大雪が降らぬうちに、母ぎみのような山の精である鬼から身を守れるような護符をご用意いたしましょう。それを身につけておれば、母ぎみはあなたに手を触れることはできなくなります。」

「ありがとうございます。」

雪虫は寂しげに微笑み、両手をついて一礼した。

「今日はこれより博雅が酒を飲みに来ることになっております。あなたとお会いできれば喜びましょう。」

「まあ」

雪虫の表情が別人のように明るくなった。思わず袖で口もとを押さえ、ほんのりと赤くなる。

「常磐、常磐や」

晴明は手を叩いて式を呼び、雪虫のために唐菓子を用意するよう命じた。



堀川小路を北へ向かって歩いていた博雅は、両手を袖の下に入れて、身をすくませた。

「冷えるなあ」

思わず独り言を言う口から吐き出された息も白い。

ふと気づいて見上げると、どんよりと曇った空からさーっと雪が舞い散ってきた。

―冷えると思うたら、雪か。

ところが、最初は、たださらさらと舞い落ちては消えるだけの雪であったのが、急に激しい降りに変わった。

―大雪になるのか?これはいかん。

積もってしまう前に晴明の屋敷に着けるだろうか。博雅は不安になった。

雪は激しくなる一方で、やがて吹雪と化し、大粒の雪が博雅の顔に吹き付けてきたので、思わず袖で顔を覆う。

―こんな雪は、見たこともないぞ。

都に降る雪の降り方ではない。

はっとして、博雅は足を止めた。

己れがどれほど歩みを進めても、一歩も前に進んでいないことに気づいたのである。

―何かの結界か?

困惑してその場に立ち尽くした博雅は、目の前にぼおっと人が立っているのを見とめた。

人影は女だった。

白い衣を纏い、黒髪を長く垂らしている。

雪は、女を中心に渦巻いているようであった。

やがて、女は口を開いた。

「そなたか、我が娘を誑かしておるのは」

「・・・?」

博雅が答えようと口を開いた時、女はすうっと目の前まで近寄ってきた。

続く


 この話を書くために、ネットや妖怪の本で雪女のことをいろいろ調べていたら、ここで元ネタにした、最も流布しているラフカディオ・ハーンの『怪談』の雪女の原話は、多摩地方の伝承だったと知って、かなり意外でした。てっきり北陸か東北だと思っていたので。四国とか、奈良、和歌山にも、女の姿をした雪の妖怪の話あるそうで、いわゆる豪雪地帯に限らず、山地で、それなりに冬に雪が多く積もるような地域には、どこにでも話のある妖怪のようです。そりゃそうか。

 ので、最初は雪虫の出身地を越後辺りに設定していたんですが、もっと都に近いところでも構わないだろうと、京都地方でもかなり冬の積雪の多い、丹後に設定しました。酒呑童子で有名な大江山も丹後だしね。



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