霜月(旧暦十一月)も半ばとなった頃、都を初雪が訪れた。

朝方に降り始めた淡雪は、積もることもなくやがてやみ、昼過ぎには冬日がさしてきた。

晴明は蔀戸を開け放って冬枯れの庭を眺めながら、廂で博雅と酒を飲んでいた。

「今日は初雪であったな」

「うむ」

「冬になったというのは朝夕の冷え込みが日に日に厳しくなってくるのでわかるが、こうして初めて雪が降ると、いよいよ冬なのだなあ、という感が深まるものだ。」

「そうだな」

いつものように、しみじみと語る博雅に、晴明は軽く相槌を返してやる。

「しかし、このように都に降る雪というのはいかにも美しく、また趣き深いもので、我らは雪見の宴を催したりなどするが、冬に多くの雪が降るような土地では、積もった雪で家が押し潰されてしまったり、吹雪で人が凍え死んだりなどするので、雪というものは、それはそれは恐ろしいものなのだそうだよ。」

博雅は、今にも雪がひらひらと舞い落ちてくるかのように、まなざしを蔀から見える水色の冬空に投げた。

「おまえもいつか似たようなことを語っておったが、雪というものはただ雪でしかないのに、見る人の心によって美しいものにも恐ろしいものにも変わってしまうものなのだな。」

「おまえの言うとおりだよ、博雅」

晴明は優しい目で博雅を見、

「雪の深い土地では、人は雪の妖しを見ることもあるそうだからな」

「雪の妖し?」

博雅は興味を引かれ、晴明を見返した。

「うむ」

晴明はうなずいて、

「大雪の夜などに山に入って道に迷うたりすると、女の姿をした妖しが現れ、冷たい息を吹きかけて人を凍え死にさせてしまうそうだ。」

「・・・それはこわいな」

雪の降りしきる中、薄闇に女がぼおっと立っている姿を思い浮かべた博雅は、ぞくりとした。

「そのような妖しは本当にいるものなのか?」

「さあな」

晴明は微笑して、

「ああいう土地では、山奥深く入った人が吹雪に逢うて凍え死ぬということは、よくあることだろうからなあ。そのような妖しがいる、と人が考えるのも無理からぬことであろうよ。」

「そういうものなのか?」

「そういうものだ。」

「大変なのだなあ、そのような土地で人が暮らすというのは」

博雅は同情を込めてつぶやいた。

「そうだな」

晴明はうなずき、盃を口に運んだ。



そんなことがあってから、何日かが過ぎた。

ある日、帝のお声がかりで、宮中で管弦の遊びが催されることとなった。

帝のごくお気に入りの人々に限られた、小さな催しではあったが、後宮から皇后ととくに帝の寵愛の深い2、3人のお妃がたも女房たちを伴って出御し、御簾の下から色とりどりの衣の裾を覗かせ、なかなか華やいだ雰囲気となった。

博雅も当然のように召されて、琵琶を弾いたのだが、遊びもたけなわになると、特に乞われて独りで龍笛を奏でることになった。

この時、とくに帝より許されて名笛「小水龍」(※)を吹いたのであるが、天上の楽もかくやと思われる、その音色には、聴く者に涙を流さぬ者はなかったと言う。

「まさしく、博雅が横笛を吹くと、鬼瓦さえも感涙の余り屋根より吹き落とされるであろう。」

帝から格別の言葉を賜り、博雅は恐縮して頭を下げた。

日暮れ頃より始まった遊びは、夜通し続けられ、東の空が白み始める頃、帝と后妃がたが引き上げられるのを合図に、三々五々と引けていった。

博雅が謡を口ずさみながら、よい心持ちで清涼殿の廂を歩いていると、傍らの御簾の内より声をかける者があった。

「博雅さま」

足と止めて見ると、御簾の隙間から一人の女房が覗いている。

ぬけるような肌の白さが印象的である。

博雅は、一瞬きょとんとしたが、すぐにぱあっと顔を輝かせた。

「雪虫どのではありませぬか」

この夏、御霊の一件で博雅の命を救った半人半鬼の女、雪虫である。

その折りには雪白の袿姿であったが、今日は椿の襲の女房装束に身を包み、いかにも宮中に仕える美しい女官といった様子である。

「またこうしてお逢い出来るとは。あの折りに受けた御恩、決して忘れませぬ。」

博雅が深々と頭を下げると、雪虫は思い切って声をかけたはよいが、いざ顔を合わせるとすっかり上がってしまった、というふうで赤くなり、目を伏せてしまう。

「なにゆえ宮中におられるのです。」

「この秋より、梨壷の更衣さまのお傍にお仕えしておりますの。」

訝しげな博雅の問いに、雪虫はおずおずと答えた。

「先ほどの博雅さまのお笛、更衣さまのお傍で聴かせて頂きました。」

ちらと上げた目はうっすらと潤んでいた。

「余りに素晴らしかったので、失礼とは存じましたが、ついお声をかけてしまいました。」

「失礼などと」

博雅は熱心に言った。

「雪虫どのは、わたくしの命を救ってくださった恩人ではありませぬか。わたくしの力になれることであれば、何なりとおっしゃって下さい。」

「まあ・・・」

雪虫はますます赤くなって、袖で顔を半分覆ってしまった。

そこへ、

「伊予局どの、伊予局どの」

と女の声で呼ぶのが聞こえた。

雪虫ははっとして顔を上げ、声の方に向かって、

「ただ今参ります。」

と答えておいてから、博雅を見た。

「お呼び止めしてしまって申し訳ありませぬ。失礼いたしますわ。」

ぺこりと頭を下げ、御簾の奥へ消えた。

「伊予局と呼ばれておられるのか・・・」

博雅は嬉しそうにつぶやき、再び謡を口ずさんで、歩き始めた。



続く


(註)

※小水龍・・・『江談抄』に、笛の名品として、葉二と並んで大水龍・小水龍・青竹といった名前などを挙げ、大水龍と小水龍は、村上天皇の頃、御物(皇室の所有)であったと見えます。大水龍はコミックの8巻で使われたので(博雅が東の滝の上で吹いた笛ね)、ここでは小水龍の方を使ってみました。



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