北東から都に流れ込む埴川※は、下賀茂の社の森の南側で、北西から流れてくる賀茂川と合流する。
そこから鴨川と呼び名を変え、ゆったりと都の東側を流れてゆくのである。
晴明と博雅を乗せた牛車は、黒髪を鮮やかな黄の紐で結い、朽葉の水干を身に着け、一見美貌の稚児かと見まごう姿の若い女の式によって導かれ、埴川に沿って山道を登ってゆく。
山々はまだ紅葉の候というには早く、ちらほらとほんのり色づいた葉が緑の合間から見え隠れしていた。
「この辺りだな」
物見窓から外の様子を眺めていた晴明は、ちょうど川の流れが深い淵を作っている辺りで、パチンと扇を鳴らした。
すると、式は牛を道の脇の森の中に導き、そこに止めた。道を外れて、牛車は大きく傾いだ。
晴明は、前の簾を巻き上げ、懐から紙の人形(ひとがた)を取り出した。
「どうするのだ」
博雅が問うと、
「まあ、見ていろ」
晴明は軽く呪を唱え、人形にふっと息を吹きかけた。
人形はふわふわっと宙を漂い、牛車の外に出ると、一人の男の姿になった。そして、いかにも通りすがりの旅の者といったふうで道をのぼってゆく。
と、不意に。
バッシャーン
激しい水音が響いた。
「何だ、あれは」
博雅は呆然と見つめた。
それは、巨大な蛇であった。
「いや、鬼か?」
蛇の頭があるはずのところには、漆黒の髪を振り乱し、瞳のない金色の目と大きな牙を持った、裸身の人のようなものの上半身がついている。
蛇身の鬼は、鋭い爪を生やした手で、男の体をむんずとつかみ、頭からバリバリと喰らってしまった。
「ううむ」
紙の人形が化したものだとはわかっていても、余り気持ちのよい眺めではない。博雅は眉をしかめて目をそらした。
晴明も見つめながら眉をひそめていたが、こちらは嫌悪感によるものではなかった。
「あれは人だな」
「何?」
「現し身のまま鬼と化してしまったか、死したのちの魂かはわからぬが、間違いなく元は人であったものだ。」
「何と・・・」
博雅は言葉を失った。
紙の人形とは知らず、食事を終えた妖しは、頭を振り立てて咆哮した。恐ろしい声が静かな山間に響き渡り、怯えた鳥たちが飛び立つ音があちこちから聞こえてくる。
そして、ずるずると淵の中に姿を消した。
「・・・で、どうするのだ。」
帰りの牛車に揺られながら、博雅が訊ねた。
「人が化したものとあっては、弓矢を用いて退治、というわけにもゆくまいな。」
晴明は答えた。
「では、やはりおまえが」
「うむ」
博雅の言に、晴明はうなずいてみせ、
「これから東京極へ行ってみよう。」
「東京極?」
博雅が問い返すと、
「昨日、おれのところに夫の仇を討ってくれと言いに来た女の住まいがあるのだ。」
「そこへ行ってどうするのだ。」
「話を聞くのさ。」
ひさめ、というその女の住まいは、鴨川の流れを望むところにあり、三間ほどに区切られた小ぢんまりとした家だが、むさ苦しくはなかった。
突然の来訪にも関わらず、ひさめは小ざっぱりとした身なりをし、家も掃除が行き届いていた。小さな庭では、ごく幼い男の童が蜻蛉を追って遊んでいた。
博雅と共に中に通された晴明は、単刀直入に切り出した。
「先ほど埴川の妖しを見て参りました。」
「まあ」
ひさめは目を瞠った。
「あれは、元は人であったものですね。」
晴明の言葉に、ひさめの肩がぴくんと震えた。
「そして、あなたに縁(ゆかり)のあるお方ですね。」
「晴明!」
博雅が驚いて口を挟んだ。が、晴明はじっとひさめを見据えている。
「晴明さまのおっしゃる通りでございます。昨日はわたくしは本当のことを申し上げませんでした。」
そこで、辛そうに息を吐いてから、
「あれはわたくしの夫でございます。」
「何と」
博雅は息を呑む。
「どういういきさつなのか、話して頂けますか。」
晴明の口調はあくまで静かだ。
「はい」
ひさめは目を伏せ、しばし沈黙したのち、目を開いて語り始めた。
ひさめの夫である男は、もとは盗人であったのが、思うところがあって足を洗い、堅気の商いに精を出していた折りに、さる公達の家に仕えていたひさめと出会い夫婦となった。
二人の間にはすぐに子も授かり、夫婦二人の働きで、一家はこれといった不自由もなく、満ち足りた暮らしを送っていたのである。
ある折り、夫婦は知り合いに子を預け、所用で大原の里へ出掛けた。その帰り道に、盗人の一団に襲われてしまったのである。
折り悪くも、その中に昔の夫を知る者があり、足を洗った夫を裏切り者呼ばわりして、これを散々に殴ったり蹴ったりした。
挙句、縛り上げた夫の目の前でひさめを手籠めにし、夫婦の持ち物を奪って立ち去った。
「何と酷いことを・・・」
博雅が同情に目を潤ませてつぶやくのに、ひさめは丁寧に頭を下げた。
「わたくし、余りに腹立だしく、また余りに恥ずかしかったので、盗人どもが行ってしまったあと、夫の縄を解きながらこう申しましたの。何と頼りにならぬ人、かように頼りにならぬ人を夫と呼ぶことは出来ぬ、と。」
そこで、ひさめはぽろぽろと涙を流した。
「あのようなことを申すべきではございませんでした。夫とて、十分に腹立だしく辛き目に遭わされたというのに、どんなにか傷ついたことでしょう。」
とにかく、ひさめは夫を罵った後、これを置き去りにしてその場を立ち去った。すると、背後で獣の咆哮のような叫び声がしたので、振り返ると、夫が淵に身を投げるのが見えたのである。
ひさめが悲鳴を上げてそこに駆けつけた時には、淵は青黒く静まりかえり、夫が浮かび上がってくる気配はなかった。
ひさめは岸辺に膝をつき、泣きながら淵を覗き込んだ。
と、俄かに水面が波立ったかと思うと、
「あれ」
大きな蛇がぬうっと鎌首をもたげてきた。
ひさめは驚いて転がるようにその場を逃げ去ったのであった。
「その後のことでございます。夫が身を投げた辺りで妖しが出る、という噂が広まったのは」
ひさめはあの大蛇のこともあり、何となく気になって、その場所へ行ってみた。そして、半人半蛇の妖しに出会ったのである。
「わたくしには一目で夫とわかりました。夫もわたくしとわかったのでしょう。取って喰らおうともせず、水の中に姿を消しました。」
ひさめは夫を失ったことは確かに辛く悲しいが、いかに怨みを残して死んだとはいえ、何の関わりもない人々の命を奪うような鬼と化した夫は、ただただ浅ましい。そこで、その調伏を頼んできたわけなのである。
「夫を殺めてくれ、とは恐ろしい女とお思いでしょう?」
「いいえ」
晴明は優しく言った。
「お話はよくわかりました。おそらくあなたのご主人はその怨みの強さの余り、淵に棲む蛇の精にとり憑かれてあのような姿となったのでしょう。」
それから、白い指で形のよい己が顎に触った。
「さて、どうしたものか」
思案気に巡らされた瞳がふとある一点で止まった。
「ひさめどの」
「はい」
「あの衣は」
ひさめは首を巡らせ、晴明の視線の先に掛けてあった衣を見た。
「ああ、あれは夫の持ち物でございます。」
「ご主人が身につけられていたのですか?」
「いいえ」
ひさめは少し首を傾げ、
「身につけているところは見たことがございませぬ。どなたか、やんごとないお方から頂いたとかで、それはそれは大切にしておりましたわ。仕舞いこんでおりますので、時折ああやって虫干しを」
「ほう」
晴明は軽く目を瞠った。
「なかなかよい品のものですな。なあ、博雅」
博雅の方を見る。
「うん・・・」
博雅はぴんとこない顔をした。
「あれが何か・・・」
「いや、たまたま目に止まりましたので」
晴明は軽く受け流し、
「明日、もう一度、件(くだん)の淵に参ります。よろしければ、あなたにもご同道をお願いしたいのですが」
「はい」
ひさめは覚悟を決めた顔でうなずいた。
ううむ、もう話が読めちゃったかなあ。次回、早くも最終回っス。
註
※ 埴川・・・現在は高野川と呼ばれています。今でも京都市内から大原方面に行くバスは、この川に沿って走ってます。