ひさめの家からの帰途、牛車の中で博雅が先ほどと同じ問いを繰り返した。

「・・・で、どうするのだ?」

「うむ」

晴明は考え深そうに、

「うまくゆくかはわからぬが、とりあえずはこれが一番よい手であろうよ。」

「だから、どんな手だ?」

もどかしげに重ねる博雅の問いには答えず、

「博雅、明日は篳篥を持ってきてくれぬか。」

「篳篥を?」

「うむ」

「かまわぬが、どうするのだ?」

「ちと、聴かせたい者がおるのでな」

晴明は意味ありげに微笑した。



次の日。晴明と博雅は下賀茂の社の前で待っていたひさめを牛車に乗せ、再び埴川に沿って山道を登っていった。

昨日と同じ場所に車を停めると、ひさめだけを車の中に残し、晴明と博雅は川岸に並んで立った。

「ここで吹けばよいのか」

博雅は懐から篳篥を取り出して晴明に訊ねると、

「うむ」

と頷くので、小さな縦笛を唇に当て、すうっと息を吹き込んだ。

きらめくような音色がふわあっと辺りに広がり、山間にこだまして、か細く澄んだ響きが帰ってくる。

その木霊とももつれあって、えもいわれぬような美しい音色が山々を満たした。

ひさめは心痛を抱えながらも、その音色にうっとりと聴き入った。

ややあって、何気なく目を開いた博雅は、思わず目を大きく見開いた。

いつのまにか妖しが目の前にいるのである。

蛇の胴体と人の如き鬼の上半身を持つ異形の生き物が、瞳のない金色の目で、博雅を真正面から見つめている。

「大丈夫だ、止めてはならぬ」

晴明が安心させるように肩を抱き、耳元で囁いたので、博雅は安堵したように目を伏せ、再び楽に身を浸した。

妖しは身動き一つせず、じっと篳篥の音色に聴き入っているようであったが、その姿がみるみる変化し始めた。

ひさめは口元に手を当て、目を大きく見開いた。

そして、

「もうよいぞ」

晴明から声をかけられ、篳篥を唇から離し、目を開いた博雅は目の前の光景に呆気にとられた。

妖しの下半身は相変わらず、巨大な蛇であったが、上半身は鬼ではなかった。

裸で蓬髪ではあるものの、紛れもなく人―男の姿であった。

下半身が蛇の男は両手で顔を覆っておいおい泣いていた。

そして、男が両手を下ろして顔を上げたのを見た博雅は、驚いて叫んだ。

「おぬしはあの時の盗人ではないか」

「おお、憶えておいででしたか。」

男は涙をぽろぽろとこぼして、

「よりによって、殿さまにかような浅ましき姿をお目にかけてしまうとは・・・。もはや死した身とはいえ、消え入るばかりでございます。」

「おぬしがひさめどのの・・・おお、そう言えば足を洗った盗人だと」

「はい」

男はうなずいた。

「殿さまのそのお笛の音に心洗われるような想いが致した上に、あのようなお情けまでかけて頂き、心底悔い改めまして、あれ以来きっぱりと」

「そうであったか・・・」

「あなた!」

たまらず、ひさめが車の中から駆け出してきた。半蛇の夫の体に泣きすがる。

「ごめんなさい、あなた。わたくしがあのようなひどいことを言ったばかりにこのような・・・」

「おお」

思いがけない妻の行動に、男は一瞬の当惑ののち、妻の体を抱いた。

「何を言う。あれはみなおれが悪いのだ。おれが不甲斐ないばかりに、おまえをあのような目に遭わせてしまった。」

妻は激しくかぶりを振った。

「いいえ、いいえ。そもそも悪いのはあの盗人ども。それなのに・・・。」

晴明は、泣きじゃくる夫婦と呆然と立ち尽くす博雅とを、しばらく黙って見守っていたが、ややあって男に呼びかけた。

「あなたの身から蛇の精を祓い落とさねばなりませぬ。しかし、祓い落とせば、あなたは既に死せる身、実体を失い、消えてしまうことになりますが。」

「あなた・・・!」

ひさめははっとして夫の顔を見た。しかし、男は晴明の方を静かに見返した。

「名のある陰陽師の方とお見受け致します。」

丁寧に一礼し、

「本来なら、とうに死んでしまっているはずの身。それを物の怪にとり憑かれ、このような浅ましき姿に変えられ、あまつさえ何の関わりもない人々を数多く殺めてしまいました。かくなる上は、一刻も早く別の世へと移り、この罪を償いとうございます。」

「わかりました。」

晴明はうなずいた。

「さあ、おまえ」

男は優しくすがりつくひさめの体を押しやった。ひさめは童がいやいやをするようにしきりに頭を横に振ったが、どうすることもできず、その場にうずくまり、すすり泣いた。

「殿さま」

男は博雅の方を見た。

「今生のお願いでございます。いま一度お笛を」

博雅は悲痛な色を瞳に浮かべ、黙ってうなずいた。そして、もう一度篳篥を唇に当てた。

端麗な調べが再び辺りを支配する中、晴明は男の額に右の指を、己れの口元に左の指を当て、ひとしきり呪を唱えた。

やがて、男の体が光を放ち始めたかと思うと、次の瞬間、穏やかな微笑の名残だけを残して、ふうっと消えた。

その後には、小さな黒い蛇がするすると草の間を動いてゆき、ぽちゃんと水に飛び込んで、それっきり見えなくなった。



ほろほろと酒を飲んでいる。

博雅は時折盃を口に運びながら、黙然と秋草の生い茂る庭を眺めていた。

晴明はいつものように柱に背を預け、目を伏せて何やら瞑想に耽っているように見えた。

おもむろに博雅が口を開いた。

「あの男に憑いて妖しと変えていたものは、あんなに小さな蛇であったのだな。」

「いや」

晴明は目を伏せたまま、あっさりと打ち消した。

「あれは人の味を覚えてしまったからな。何かの弾みでまたぞろ人を襲わぬとも限らぬので、祓い落とす時妖力も奪っておいたのだ。もともとは、ひさめどのの見た巨大な蛇であったのさ。」

「何だ、そうか」

「もう、並の蛇の如く、虫や小さな獣を捕らえることぐらいしかするまいよ。」

「うむ」

博雅は盃を口に運んだが、

「それにしても」

「何だ」

「おまえ、どうしてあの男がおれの家に入った盗人だとわかったのだ?」

そこで晴明は目を開けて、まじまじと博雅を眺めた。

「おまえ、本当に気づいておらなかったのか?」

「気づくとは何にだ。」

「ひさめどのの家にあった衣だよ。」

「衣・・・。」

博雅は首をかしげ、

「おお、おまえがよい品だと褒めていた・・・」

「あれは、おまえがあの男に与えたものではないか。」

「は?」

博雅は虚を衝かれた。

「そ、そうであったかな。」

言われてみればそうであったとも、いや、違うとも言い切れぬ。要するに全く記憶がないのである。

「己れの衣の柄も覚えておらぬのか?」

晴明は呆れたように訊ねた。

「それは・・・」

博雅は少しむくれて、

「余り着古した物では悪いかと思うて、一度か二度しか袖を通していない、新しいものをやったのだ。いちいち覚えておるか。」

「おまえらしいな。」

晴明は笑った。

「ちょっと待て」

博雅は眉をひそめ、

「ならば、おまえはどうしてわかったのだ。」

「何を言う」

晴明は事もなげに、

「おれのところに来た折りに、一度袍の下に着ておったことがあったではないか。」

「そ、そうであったかな。」

博雅は困惑して首をかしげたが、晴明は余りに自信たっぷりだった。

「そうであった。」

「それをおまえは覚えておったというのか。」

博雅は呆れた。

「当たり前だ。」

晴明は涼しい顔だ。

「一応、ひさめどのに確かめたら、さるやんごとないお方に頂いて、自分では袖を通しもせず、大切にしておったと言うではないか。それで確信したのだよ。」

「ふうん」

そもそも己れが「やんごとないお方」と呼ばれるなどとは思いもしなかった博雅は、はっきりしない顔になる。晴明は苦笑した。

「全く、おまえは本当によい漢だな」

「またそれを言う」

博雅はむくれた。

「からかいおって」

ふんとそっぽを向いた。

「ははは」

晴明は楽しそうに笑って盃を口に含んだ。

夜は静かにふけていった。




篳篥の音色については、東儀秀樹氏のおかげで、結構一般にも知られていて、イメージがしやすいのではないかと思いますが、

管理人の拙い筆でそれが表現できたかどうかは甚だ心もとないです・・・。

ちなみに、どうして晴明が一度しか見ていない博雅の単の柄を覚えていたのか、というのは、皆様の同人的想像にお任せ致します。はい(笑)


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