愀歌
ほろほろと酒を飲んでいる。
庭のそこここから、虫の音が聞こえてくる。
「もう、すっかり秋なのだなあ。」
博雅はうっとりとその音に耳を傾けながら、盃を口に含んだ。
「うむ」
晴明はいつものように片膝を立て、柱に身を預け、淡い灯火の光に照らされた博雅の姿を楽しそうに見ている。
「こんな夜には、あの盗人のことを思い出すよ。」
博雅が言うと、晴明は、
「いつぞや、おまえの屋敷に入った、面白い盗人だな。」
「おお」
博雅は大きくうなずいた。
「盗人にもあのようにものの風情がわかるものがおったのだよ。」
それは数年ほど前の、やはり秋の初めのことであった。
その夜、宿直であった博雅は明け方近くになってから内裏より帰邸した。すると、何やら屋敷の中が騒がしい。
「こ、これは殿」
あたふたと、家令を任せている老人が迎えに出た。そして、おろおろと何度も頭を下げる。
「まことに申し訳ありませぬ。」
「いかがしたのだ?」
「それが、家の者がみな寝静まっておる間に、盗人に入られたのでございます。」
「何」
博雅は驚いた。
「手荒な真似はされなかったか?誰ぞや怪我をした者はないか?」
「そ、それはございませぬが」
博雅の部屋の物がごっそり持ち去られていたのだ。
「行ってみると、参内する折の装束なども全て持ち去られておってなあ、明日よりどうしたものかと途方に暮れてしまったよ。」
博雅はその折りにも晴明にそう語ったが、とりわけ彼をがっかりさせたのが、母の形見の品である手箱を盗られてしまったことだった。
美しい蒔絵をほどこした、それは見事な品で、生前の母が長く愛用していた大切な品であったのだ。
すでに家人が検非違使に知らせに走っているというので、博雅はがらんとした部屋でぼんやりしていた。
幸いなことに、楽器の類は価値がわからなかったものか、見事な蒔絵の小鼓以外は手をつけられていなかった。博雅は何気なくその中から篳篥を手に取り、廂に出た。
蔀戸を開けると、まだ明るくなるまでには間があるようだ。
博雅は、ぽつぽつと星の瞬く空を見上げながら、手にした篳篥を唇に当てた。
何とも優雅な音色が辺りに響き渡る。星々の瞬きがそのまま音と化したかのようであった。
ひとしきり奏でてから、ふと目を上げると、庭に誰か立っている。博雅は篳篥を唇から離し、問いかけた。
「誰そ」
見れば、大きな包みを背負った男である。博雅が不審がって問いを重ねるより先に、男は簀子の傍まで進み出て、背負っていた包みを簀子の上に載せ、その場に平伏した。
「申し訳ござりませぬ!」
「・・・?」
事態をよく飲み込めない博雅が首をかしげていると、男は両手をついたまま顔を上げた。見れば泣いていたのか、目が真っ赤である。
「わたくし、さきほど殿さまのお部屋の物を盗んだ者でございます。」
「何と・・・」
博雅は目を見張った。
「屋敷の外に出る前に、家の方々に気づかれてしまい、逃げる隙を伺って、こうしてお庭の前栽に隠れておりましたところ、殿さまの吹かれるその笛の音が聴こえて参りまして」
男は目をこすった。
「何と心地よい音色よ、と耳を傾けておりましたが、聴いているうちに、このような美しい音を奏でるお方の大切な持ち物に、無闇に手をつけた我が身が心底恥ずかしくなりまして」
片手で簀子に置いた包みを示した。
「こうしてお返しに上がった次第です。」
「これは・・・」
博雅は簀子に出て包みを開いた。中から出てきたのは、確かに博雅の持ち物であった。
「おお」
母の形見の箱を手に取った博雅は、思わずうれしそうな笑みをこぼした。
男は、その笑顔に一瞬見惚れたが、はっとして再びひれ伏した。
「こうなっては致し方ございませぬ。検非違使に引き渡されようと、殿さまならばお恨み申し上げませぬ。存分になされて下され。」
博雅は驚いて男を見た。
「何を言う。そなた、こうしておれの物を返してくれたではないか。何も盗られておらぬのに、なにゆえ検非違使に訴えねばならぬのだ。」
「は?」
男はぽかんとして顔を上げた。
博雅は、己れの衣の山をごそごそと探っていたが、やがて一着の単を取り出した。
「母の形見を返してくれた礼だ。家の者が役人を連れて来ぬうちにこれを持って疾く去るがよい。」
落ち着いた濃蘇芳の、質のよい絹地で仕立てられた衣を差し出されて、男はうろたえた。
「と、殿さま・・・」
思わず平伏する。その肩が震えていた。
「さあ」
博雅が促すと、男は身を起こして衣を押し頂き、深々と頭を下げて立ち去ったのであった。
その折りにも、この話を聞かされた晴明は苦笑して、
「ほんとうにおまえはよい漢だな。」
と言ったものであったが、
「あの盗人は今頃はどうしておるかなあ。」
などと、呑気に夜空を見上げている博雅を見ると、同じ言葉を口にせずにはいられなかった。
そして、またからかっておる、と唇をとがらせる博雅を、笑みを含んだ眼差しで眺めていたのである。
「ところで、おまえは埴川の妖しのことを聞いておるか」
ふと晴明が訊ねた。
「おお」
博雅はうなずいた。
「聞いておるも何も、都中の評判ではないか」
埴川に沿って、八瀬の里から大原の里に向かう途中の山中で、巨大な蛇のような妖しが川の淵より姿を現し、道行く人を捕らえて喰ってしまうというのである。
「あの道筋は都と若狭を結ぶ要路であるからなあ。妖しを恐れてすっかり人の行き来が途絶えてしまい、家の者が魚や塩の値が上がって困る、とこぼしておった。」
博雅は言い、
「その妖しがどうかしたのか?よもやおまえが退治を命ぜられたとか・・・」
「それもある」
晴明は気軽な調子で、
「それもあるが、人に頼まれてな。」
「人に?」
「今日の昼間、女が訪ねてきてな」
「女だと」
「どこぞの家に仕える女房のようであったが、以前、その妖しに夫を殺されたそうだ。」
「それはお気の毒な・・・」
「その仇をおれに討ってほしいと頼みにきたのだよ。」
「そういうことか」
博雅は納得したが、すぐ不安そうな顔になって、
「しかし、巨大な蛇のような妖しなのであろう?陰陽師よりは弓矢の者どもを差し向けた方がよいのではないか?」
「うむ」
晴明はうなずき、
「そういうこともあるので、とりあえず、その妖しとやらを見に行ってみようと思うておる。」
「ほう」
「その上で兵(つわもの)どもを遣わすよう言上するか、こちらで何とかするか、決めようと思うのだ。」
「なるほど」
「それで、明日の朝、ゆくことにした。」
「明日?」
「だから今宵は泊まってゆけ」
博雅の盃を持つ手が止まった。
「・・・もしかして、おれもゆくのか?」
「ゆかぬのか?」
「ゆ、ゆく」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
言うまでもなく、元ネタは『古今著聞集』の中の話です。
いろいろヘンなところを整理すれば、こういうことになるのでは。
怪獣は次回登場。