内裏を出た晴明と博雅は、そのまま上総宮の屋敷に向かった。
その車中で、博雅は重い溜息をついてから言った。
「それにしても、恐ろしい話だ」
「うむ」
「おれは、上総宮さまをよく存じ上げているが、大層穏やかで、万事控え目な方だ。そのお方が、孫可愛さとはいえ、稚き赤子の死を望まれるとは…」
博雅は、もう一度吐息をついて、
「恐ろしいが…悲しい話だな」
「そうだな」
晴明は頷いた。
稚児の扮装をした美しい女の式が轢く牛車は、そのうち目的の屋敷に着いた。
すると、屋敷の内が何やら騒がしい。
取次ぎの者に、晴明と博雅が名を告げると、何故かほっとしたような顔になって、
「どうぞ、こちらへ」
と、用件も聞かずに二人を奥へ導いた。
家令らしき老人が出て来て、
「これはこれは安倍晴明さま、良いところへお出で下さいました」
両手を合わせて、
「これも阿弥陀如来のお導き…」
「良いところへ来た、と?」
「何があったのです」
「とにかく、こちらへ。どうか若君をお救い下さい」
「若君…?」
晴明と博雅は一瞬視線を交わしてから、老人に導かれるままに寝殿の奥へ進んだ。
寝殿の奥の間からは、獣のような唸り声と、女の悲鳴、そして何か宥めすかすような声が聞こえて来る。
中に入ると、几帳や灯火台は全て倒され、角盥やら文机やら厨子やらがそこらじゅうに散らばって、足の踏み場もない有様だった。
そして、その真ん中に、得体の知れない生き物が、女房らしい女を床にうつ伏せに押さえつけて、その上に馬乗りになっていた。
どす黒い肌をして、蓬髪を振り乱し、血走った目で辺りを睨み付け、獣のような声で吼えている。
高家の男童が纏うような、品の良さそうな水干を身に着けているのが奇妙であった。
女は袿を剥がれて単と緋袴をいう姿で、長い髪をぐいぐいと引っ張られて、悲鳴を上げていた。
これを遠巻きにするように、男たちが、宥めるように声を掛けている。
その中に身分の高そうな老人がいて、これが上総宮であるようであった。
部屋の隅では、やはり高貴な身分と見える老婦人が、盛んに前へ出ようとするのを、女房たちに抑えられている。上総宮の北の方と見受けられた。
「宮さま、安倍晴明さまがお出でになりました!」
こちらを振り返った宮の顔に安堵の色が浮かんだ。
「晴明どの?まことに晴明どのか」
「何があったのです。あれは、もしやお屋敷の若君さま…」
晴明が問うと、宮は蒼褪めた顔で頷いた。
「ここしばらく、顔色も悪く、引きこもりがちであったのだが、先程急にあのように暴れ出してな」
すると、宮の北の方が、縋るように叫んだ。
「晴明どの、どうか、孫を…若君を救うて下され」
「お任せ下さい」
晴明は頷いて、大股で少年に歩み寄ると、少年が歯を剥き出して威嚇するのに構わず、いきなりその額に懐から取り出した呪符を貼った。
すると、少年の動きがぴたりと止まった。
女の髪を放したので、晴明が少年の体を引いて、女の上から退かせると、女は、
「ひいいいい」
と悲鳴を上げ、這うようにして少年から離れた。そして、そのまま気絶してしまった。
女房たちが駆け寄って、これを介抱する。
少年は、すっかり大人しくなって、ぺたりとその場に座り込んだが、肌の色はどす黒く、目は血走ったままである。ぶつぶつと、
「殺してやる…殺してやる…」
と呟いている。
晴明は、博雅を振り返った。
「博雅さま、お笛を…」
博雅は頷くと、少年の傍へ歩み寄った。
懐から葉二を取り出して唇に当てた。
その清麗な音色が耳に入ると、少年は呟くのを止めた。
目を上げて、博雅を見た。
次第にその目の色は和らぎ、顔色も健康な童の肌の色に戻ってゆく。
博雅が一曲を奏で終えると、頭は蓬髪のままながら、愛らしい顔立ちの少年は、にっこりと博雅に笑いかけ、それからふうと気を失って倒れた。
晴明は、少年の上に屈み込んで、そっと額の呪符を剥がした。
「し、白菊丸や…!」
宮と北の方が一斉に駆け寄った。
「せ、晴明どの、孫は…」
「眠っておられるだけです。目覚めれば、このたびの騒ぎのことは全て忘れ、元通りの元気な若君に戻られることでしょう」
晴明は言い、それから、宮の顔をまともに見た。
「先程、陰陽寮の紀泰久どのにお会いしました」
「…」
宮は青白い顔になって黙り込んだが、
「全てお話し下さいますな」
と、晴明が言うと、覚悟を決めたように頷いた。