暴れていた少年は、名を白菊丸といい、藤原帯人と、亡くなった上総宮の姫との間の子であった。

祖父母である宮夫婦のもとで養育されていたのである。

父親の帯人は、姫が亡くなってからも、白菊丸を不憫がって愛おしみ、しばしば訪れていたのだが、

新しく通う女が出来、その女を北の方とすると、徐々に訪れも間遠となり、その女のところに赤子が生まれると、全く白菊丸を省みることがなくなった。

宮夫婦は、何と情の薄いこと、と恨めしく思い、また、

「老い先の長くない私たちが死んだら、この子は誰を頼りにすればよいのか」

と酷く心許無く思った。

白菊丸が、まるで顔を見せぬ父を恋しがると、これが不憫でならず、帯人の薄情を恨み、帯人の新しい妻を憎み、

やがては、その妻の子さえ居なくなれば、帯人は、また白菊丸に目を向けてくれるのではないかと思うようになった。

夫婦は、二人だけで相談した上で、家令を呼んで意図を打ち明けた。

家令もまた、帯人の情けの無さに憤っていたから、夫妻の提案に否やは無かった。

家令の子の泰久が陰陽寮の陰陽師であったので、家令はこれを呼び寄せ、密かに、

「人知れず赤子の命を奪うような術は無いか」

と問うたのである。

泰久は驚いて、自分はそんな術は知らぬし、仮に知っていたとしても、陰陽寮に務める身で、そのようなことを口にすることは出来ぬと断った。

しかし、父に涙を流してかき口説かれ、宮自ら出向いてきて、是非にもと頼まれるに至って、無碍にも断り切れなくなり、

泰久はその場を凌ぐために、小豆ほどの大きさの虫を一匹与えた。そして、

「この虫を、誰かを憎いと思う心で育てれば、やがて恐ろしい毒虫に変じて、憎い者のところへ飛んでゆき、刺して殺すでしょう」

と告げたのである。

実際には、その虫が毒虫に成長するには、相当根強い憎悪の念を受けねばならず、

孫可愛さの余りいっとき目が眩んだだけならば、さほどに危険なことにはなるまい、と考えたのであった。

事実、宮夫婦はいざ虫を手に入れてみると、恐ろしくなった。

考えてみれば、悪いのは誠意の無い婿の帯人であり、いたいけな赤子には何の罪も無い。

我が子我が孫の赤子の頃を思うと、あのように小さくてやわらかな生き物を毒虫に刺させて殺すとは、何とおぞましい。

宮は虫を竹筒の中に仕舞い込み、早いうちに泰久に返すつもりで仏間に置いたのである。

ところが、これを一人で遊んでいた白菊丸が見つけ、中に珍しい虫がいるので、竹筒から出して自分の部屋へ持っていってしまった。

後で、竹筒が空であることに気付いた宮は、蒼くなったが、どこかへ逃げてしまったのだろうと己に言い聞かせ、誰にもそのことを告げなかった。

白菊丸は小さな虫籠に虫を入れ、事情を知らぬ女房や舎人童たちに手伝わせて世話をしていた。

宮が気付いた時には、虫はすっかり大きくなって、黒い毒虫へと成長していたのであった。

そして、その夜のうちに、虫は姿を消した。ちょうど、橘御舟の屋敷で騒ぎがあった夜であった。

白菊丸がどす黒い顔色になって引き籠もったのも、その夜を境にしてのことである。

白菊丸の変事は、毒虫が死んだ時、その悪念がその身に返ったためであった。

「しかし、晴明どの」

上総宮が問うた。

「何故白菊丸の手許にあった虫が毒虫となったのであろう。…十かそこらの童に、さほどに強い悪念があるとは思えぬが」

「その逆でございます」

晴明はかぶりを振った。

「大人ならば、少しの憎しみや妬み嫉む心は、理で以って制することが出来ましょう。理で以っても納めきれぬ時、それは強い怨念と化すのです。しかし童は…」

「理が判らぬから、些細な悪心でも強い力を持つ、と…」

「左様です」

晴明は宮の言葉を肯じた。

「幼き身であっても、周りの様子から、父親が会いに来てくれぬ訳を薄々悟っておられたのでしょう」

「常であっても、幼き人というのは、弟や妹が生まれ、皆の関心がそちらへ向かうと、寂しがってこれを妬むもの…

会いに来てくれぬ父親を恨む心と、その父を奪った幼い弟を妬む心が虫を育て、白菊丸をあのような姿にしてしまったのか…」

「何と痛ましい」



晴明の名で上総宮の屋敷に呼びつけられた帯人は、大層気まずい様子で、家人たちの尖った目付きの中を通されて来た。

しかし、宮は自らの口から事の次第を打ち明け、丁寧に詫びた。

「何と」

帯人は暫し呆気に取られてから、晴明を見た。

「では、あの夜、伽羅は赤子の血を吸うていたのではなく…」

「毒虫の毒を吸い出しておられたのですよ」

晴明は素っ気無く言った。

「そうして御子のお命を救おうとなさっていたのだ」

博雅が、帯人を強い目で見ながら言った。

「おお…」

帯人は頭を抱えた。

「私は何と非道い男なのでしょう。…白菊丸を省みなかったばかりに伽羅の子を呪わねばならぬ羽目に追い遣ってしまった上、

我が子を救おうとした伽羅にも酷い仕打ちを…」

そして、居ても立ってもいられぬ、と言うように、

「伽羅に謝らねば…」

と立ち上がろうとするのを、博雅が、

「待たれよ」

と制した。

「そなた、先に会わねばならぬお方がおられるのではないか」

「あ…」

帯人は腰を落として、宮を見た。

「白菊丸に…白菊丸に会えましょうか」

宮は泣き笑いのような顔で頷いた。

「父が我が子に会いたいというのを何故止められようか。さあ、奥へ行って会ってやっておくれ」

と、自ら先に立って、帯人を奥へ導いていった。



上総宮の屋敷を辞した晴明と博雅は、再び車中の人となった。

「伽羅の方さまの親御さま―御舟どのは毒虫の件を知っておられたのだが、相手がやんごとないお方故、遠慮して伏せておられたのだな」

博雅が言うと、晴明は頷いた。

「そうだろうな」

「帯人どのの件では、あちらにも引け目があったのだろう。内裏で宮に直接嫌味を言われたこともあったそうだからな」

そう言ってから、博雅は首を傾げた。

「ところで、おれには、まだ判らぬことがあるのだが」

「何だ」

「伽羅の方は、何故御子を刺したのが悪しき毒虫と気付かれたのだろう」

良家の姫ぎみが、咄嗟に毒を吸い出すという機転がきくというのも不思議な気がする。

すると晴明は笑った。

「それは、こちらの方が説明して下さるだろう」

「こちらの方?」

その時、車がガタリと止まった。

晴明が後ろの御簾を上げると、そこは神泉苑の前で、門前に一人の壷装束の女房が立っていた。

辺りは暮色が濃い。

女房は丁寧に頭を下げて、垂れ衣を掲げた。

その顔を見た博雅は、あっと声を上げた。

「そなたは…」

伽羅の方の傍に仕えていた気に入りの女房であった。

「はい、朱鷺の前と申します」

「博雅、この朱鷺の前は、実は賀茂家ゆかりのお方なのだよ」

晴明が言った。

「我が師忠行さまの姪御に当たるお方だ」

「何と」

博雅は目を丸くした。

「では、陰陽の心得が…」

「おありになる」

「ほんの嗜み程度でございます。とても晴明さまのお前で申し上げる程のことは…」

朱鷺の前は慎ましく言った。

「だが、そなたが、御子を刺したのが悪しき毒虫だと見抜いたのであろう?」

晴明が言うと、朱鷺の前は小さく頷いた。

彼女が、伽羅の方に赤子の毒を吸い出すよう指示し、自ら毒虫を捕えて殺し、庭に捨てたのである。

「北の方さまも、よくわたくしの言を信じて、落ち着いて事に処して下さいました」

朱鷺の前は悲しげに目を伏せた。

「しかし、それがために北の方さまは殿さまに疎まれ、また、わたくしが不用意に、捕えた虫を殺してしまったばかりに、

ご不憫な身の上の若さまに悪しき呪が返ってしまいました」

「それは、そなたの咎ではない。そなたは、そなたの出来る限りで最善のことを為したのだ。若さまは、こちらの博雅さまのお笛がお救いしたし、

殿さまの誤解も解けた故明日にも伽羅の方のもとへお通いになり、ご自分の仕打ちを詫びられるだろう。そなたは何も案ずる必要はない」

晴明は優しく言った。

「有難うございます、晴明さま、博雅さま」

朱鷺の前は涙を堪えかねる様子で、深々と頭を下げた。



簀子で、二人でほろほろと酒を呑んでいる。

「なあ、晴明」

杯を手にしたまま、ぼんやりと暗い庭を眺めていた博雅が、ふと呼んだ。

「何だ」

晴明は唇に突けていた杯を離してから応じた。

「人というのは悲しいものだなあ。…つくづくとこたびの件で思うたよ」

「ふむ」

「こたびは、幸い、伽羅の方は妖しでは無いという証が立った故、元の鞘に収まったが、もし、真に妖しということになったら、

帯人どのはやはり伽羅の方を疎んじて、離別してしまったであろう」

「そう、仰せられていたな」

「人の情愛というのは、相手が常の人でないものであると判った途端、薄れてしまうような、そのように果敢ないものであったのか、と思うとなあ」

博雅は溜息をついた。

「何やら悲しい心持になってしまうのだ」

晴明の唇に浮かんだ仄かな笑みが、深くなった。

「そうでもないさ」

「そうか?」

「人でないものと契った男や女が、相手が人でないとわかった後でも恋い慕うという話は、よくあることだ。

たとえ、恋い慕う相手が如何なる存在であっても、消えぬ情というのはあるものさ」

「…」

「第一、おまえもおれに言うてくれたではないか。たとえ、おれが妖物であっても友である、と」

晴明は更に笑みを深くした。博雅は赤くなった。

「当たり前だ。…おまえとて、おれが鬼と化しても友と言うてくれた」

「ああ」

晴明は穏やかな顔で頷いた。

夜の闇を透かして、さやさやと雨の降る様が伺えた。柔らかな雨音と、蛙の声が辺りを満たしている。

夜は静かに更けていった。



続く


完結が大変遅くなりました(滝汗)。

お気づきになった方もあろうと思いますが、元ネタは、シャーロック・ホームズ・シリーズの「サセックスの吸血鬼」です。

「這う人」よりもメジャーな作品なので、御存知の方も多いかもしれません。

これも、元ネタがホラーじみた内容(現実的に決着がつくのですが)で、陰陽師の世界に移すのが割りと簡単でしたねー。

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