結局帯人は、

「しばらく考えさせて下され」

と言って、逃げるように帰った。

晴明は、伽羅の方と話が出来ぬかどうかと御舟に尋ねたが、

「娘は寝所に閉じこもってしまい、気に入りの女房以外誰も寄せ付けません」

とのことであった。

「ならば、御子にお目にかかることは…」

それならば良い、というので、晴明と博雅は赤子が養われている対に案内された。

赤子を見せることを肯んじたのは、赤子の様子を晴明に見てもらいたかったからのようであった。

博雅は遠慮して御簾の外で待ち、晴明だけ寝かされている赤子の傍に進んだ。

赤子は如何にも健やかな様子で、手足を盛んに動かし、だあだあと何か声を発していたが、確かにその首には赤い疵が二つ、ぽつりぽつりと付いていた。

晴明は、赤子の額の上に手を翳して軽く呪を唱えてから、御舟とその妻に、

「御子は快方に向かっておられます。額に不吉な影が薄く掛かっておりましたので、祓っておきましたが、何も心配はございません」

と告げた。

御舟夫婦は喜び、晴明が、伽羅の方の寝起きする対の外回りを見せて欲しいと頼むと、快く受け入れた。

晴明は博雅と連れ立って、対の周りの庭を歩き回っていたが、ふと立ち止まった。腰を屈め、地面から何かを拾い上げた。

「何だ」

博雅が覗き込むと、大きな虻のような黒い羽虫の死骸である。

「見たことのない虫だが」

「天然におる虫ではない。…人の悪念から作り出される毒虫だ」

「毒虫!?」

その時、ふと視線を感じた二人が目を上げると、少し離れたところの庇に、女房が一人立っていて、こちらを伺っていた。

目元のくっきりした、ひどく気の強そうな顔立ちをしている。

探るような目つきで二人を伺っていたが、目が合うと、気まずそうに一礼して、そそくさと中へ入ってしまった。

「今のは…」

「伽羅の方さまの女房だろう。…御舟さまがお気に入りと仰っていた方ではないか」

「何故挨拶もせずに行ってしまったのだろう」

「我々を警戒しているのだろう」

晴明は懐紙を取り出して、虫の死骸を包むと袖の中に入れた。

「まあ、これで大体判った」

「何?」

博雅は目を丸くした。

「おれにはさっぱり判らんぞ。やはり…」

と言い掛け、対の方を気にして声を低めた。

「伽羅の方さまは妖物ではないのか」

「もちろんだ」

晴明は頷いた。

それから、屋敷を辞した後の車の中で、博雅に問うた。

「帯人さまには、伽羅の方さまの前に北の方とされていたお方があったな」

「おう」

博雅は頷いた。

「上総宮さまの姫ぎみで、御子もお一人生されたそうだが、流行り病で身罷られたのだ。御子は御祖父ぎみである宮さまが引き取られたと聞いておる」

「なるほど、上総宮か…」

晴明は得心したような顔になった。

「ところで、晴明」

博雅が問うた。

「これは一体どこへ向かっておるのだ」

「内裏だ」

「内裏?」

「陰陽寮に用がある」

「陰陽寮?まさか、陰陽寮の陰陽師が…」

「うむ」

晴明は頷いて、袖の中から虫を挟んだ紙を取り出した。

「少々思い当たる節がある」



陰陽寮に渡ると、晴明は一人の陰陽師を呼び出した。

名を紀泰久といい、賀茂忠行に師事して、晴明の弟弟子に当たる。

泰久は晴明から虫の死骸を見せられると顔色を変えた。

「これは…どちらで…」

「橘御舟どののお屋敷です。御舟どのの娘御は藤原帯人どのの北の方なのはご存知ですな」

晴明はそこで言葉を切って、泰久の顔を眺めた。

「帯人どのの亡くなられた先の奥方は上総宮さまの姫ぎみ。上総宮さまには、そなたの父上が仕えておられますな」

泰久は真っ青になった。

「まさか、帯人どのの御子が…」

晴明は頷いた。

「幸い大事には至りませんでいたが、その為に御子の母ぎみが大変困った立場に置かれておられるのです」

「そんな…」

「事情を話して下さいますな」

晴明が言うと、泰久は頷いた。

「全て申し上げます」



続く


INDEXへ   小説INDEXへ