血吸い姫
さやさやと雨が降っている。
すくすくと伸びた草の上にも、日に日に緑の色を深めてゆく木々の葉にも、つれなき人の心にも喩えられる紫陽花の花びらの上にも、雨は降り注いでいる。
「もう、すっかり梅雨なのだなあ」
簀子に敷いた円座に座した博雅は、ほつりと呟いた。
「そうだな」
いつものように柱に寄りかかって片膝を立てた姿勢の晴明が頷いた。
「梅雨に入ると、いつも着ている物がじっとりと湿っておるような気がするし、道が泥濘んで、車で行くも徒歩で行くも不便であるし、
物が黴易くなって往生するし、何故このような季節があるのだ、と腹立たしくなるものだが」
そこで博雅は言葉を切った。しみじみと庭を見渡してから、
「だが、こうしてこの庭を見ておると、木々や草花はこの雨を喜んでおるのが、よう判る。草や木にとっては、この雨はまさに甘露であろうなあ。
…そもそも、梅雨が無ければ、田を耕す者が困るであろう」
「うむ」
「万物の営みというものは、常に理に叶っておるものなのだなあ」
「そうだな」
晴明は相槌を打ってから、
「時に、博雅」
と呼びかけた。
「何だ」
「おまえ、何ぞ用があっておれを訪ねたのではなかったか」
「おお」
博雅は頷いた。
「例によって、またおまえでなければだめな筋の頼まれごとをしたのだ」
そして、晴明に向き直った。
「実は、おれの楽仲間の藤原帯人どのから、内々に打ち明けられたことなのだが」
少し眉を顰める。
「これが、ひどく奇怪な話なのだ」
「ほう」
晴明は問い返した。
「どのように奇怪なのだ」
「それがなあ」
博雅は言いづらそうに言葉を選んでいたが、やがて声を潜めて言った。
「帯人どのの北の方が、人の血を吸われたと言うのだ」
晴明は眉を動かした。
「人の血を」
「そうだ」
博雅は頷いた。
帯人の北の方は、伽羅の方と呼ばれる美しい女(ひと)であった。
二人の間には、近頃男の子が生まれたばかりで、帯人はこの赤子を夢中で可愛がっていた。
ところが、数日前の夜のこと。
帯人が妻の屋敷を訪ねると、妻と赤子のいる対が何やら慌しい。
女房たちが走り回り、赤子の泣き声が響いている。
帯人は急いで妻の許へ駆けつけた。
「帯人どのはそこで何を見たと思う」
「何を見たのだ」
「北の方が赤子の上に覆いかぶさっておられたそうだ」
「ほう」
只ならぬ様子に、帯人が声をかけると、顔を上げた妻の口元に、
「血がべったりと付いておったそうだ」
「赤子の血を吸うていた、というのか」
「帯人どのはそう思っておられる。…赤子の首に噛み痕のような疵が付いておったしな」
博雅は痛ましそうな顔で言った。
「それからどうなったのだ」
晴明は先を促した。
「うむ」
帯人が驚いて叫び声を上げると、駆けつけてきた妻の父親が、帯人を対から連れ出した。
そして、それきり、妻の家の者は、帯人を妻に会わせてくれなくなった。
「帯人どのは北の方が何か妖しに憑かれたか、あるいは血吸いの病のようなものを患って、家の方々がそれを隠しているのでは、と考えておられる」
「なるほど」
晴明は頷いた。
「以前、藤原師尹どのの屋敷の女房が、蛭の妖しに憑かれて血吸いの病になったことがあったではないか。今度もやはり…」
「いや」
晴明はかぶりを振った。
「もっと込み入った事情がありそうだ」
「行ってくれるか」
「うむ。明日にでも帯人どのを訪ねてみよう」
晴明は頷いた。
翌日、晴明と博雅は、帯人の屋敷を訪ねた。
帯人の話は、博雅の語ったこととほぼ同じで、語り終えた後不安そうな顔で言った。
「私は、己が妖物と契ってしまったのではないか、と思うと、恐ろしくて恐ろしくてならぬのです。
…真実、何かが憑いたか、病であってくれればればよいのですが」
晴明は眉を顰めた。
「では、北の方が病や憑き物ではなく、まことに血吸いの化け物であったならば、如何なされるおつもりなのですか」
「それは…」
帯人は絶句した。見ていて気の毒なほどおろおろした。
「失礼ながら、帯人さまのそのようなお気持ちが、北の方に伝わってしまった故、お心を閉ざしておられるのでしょう」
「そ、そうでしょうか…」
「いかなることがあっても我が妻、―喩え妖物であっても構わぬ、と仰せになるだけの度量をお見せなさいませ」
「し、しかし、ま、まことに妖物であったら…」
帯人は下を向いてしまった。
晴明は溜息をついた。そして、
「ただ今より北の方のお屋敷に参ります。どうか御同道を」
と言うと、帯人は顔を上げ、酷く慌てた様子で言った。
「わ、判りました、もちろん参ります」
伽羅の方の父は橘御舟という殿上人で、屋敷を訪ねると、酷く困惑した様子で三人を迎えた。
「陰陽師を頼みましたか」
御舟は晴明を見て、溜息を付いた。
それから、帯人に向かって言った。
「娘は血吸いの病でも、血吸いの妖物に憑かれているわけでも、ましてや娘自身が血吸いの化け物であるわけではございません。
これには深い訳があるのです。だが、故あってそれは申し上げることが出来ませぬ」
そして両手をついて、
「帯人どのには、どうか娘を信じてやって頂きたく…」
晴明と博雅は、揃って帯人を見た。
帯人は明らかに混乱していた。
「し、しかし…やはり…信じられぬ…いや…」
袖口で汗を拭った。
「申し訳ないが、その…」
「やはり娘とは離縁なされますか」
御舟は悲しそうな顔をした。
「う、うむ…」
「帯人どの」
見かねて博雅が厳しい声を出した。
「先程から北の方が妖物であったら如何にしよう、とばかりご案じなさるが、逆に北の方が妖物でないのに離縁した、ということになれば、何となさる」
「妖物で…なかったら…」
「北の方を不当に傷つけ、頑是無い御子も不幸にすることになりますぞ」
「体面も悪うございましょうなあ。内裏での格好の噂の種になりましょう」
晴明が皮肉交じりに言った。
「わ、私はどうしたら…」
帯人は泣き出しそうな顔になった。
久々の更新です。申し訳ありません(汗)。元ネタがお分かりになった方、内緒内緒でお願いします。n(_ _)m