菊月
重陽の節句も過ぎて、朝夕の冷涼な空気が一際身に沁みるようになった、木々の葉が色づきを始める神無月の初め、
宮中で開かれた残菊の宴に、源博雅が病を理由に席を欠き、彼の奏楽を楽しみにしていた人々を落胆させた。
その上、帝も、お気に入りの女御が重い病で臥せっているのが気に懸かって、浮かない顔をしているので、宴は沈んだ雰囲気となり、夜も更けぬ裡にお開きとされてしまった。
藤原実忠が、土御門の屋敷に安倍晴明を訪ねたのは、それから二、三日が過ぎた日のことであった。
博雅の病が芳しくないので、様子を見に来てくれぬか、というのである。
「博雅さまは、どのような病なのだ。お熱が高いのか?」
晴明が問うと、実忠はかぶりを振った。
「お熱はございませんし、お食事も常のように進まれます。病とは言っても、寝込まれているというわけではないのですが、ただ肩と背中が酷く痛む、と仰せなのです」
屋敷の内を少しの間歩くのには、さして障りはないのだが、すぐに疲れてしまい、長い間立ち歩くことができない。
だから、臥床に横になっているか、脇息に寄り掛かって座っているかして過している。
薬湯を与えたり、肩と背を揉み解したりしているが、どうにもはかばかしくない。
「夜も余りお寝みになれぬようで、いつも青い顔をなさって、それはそれはお気の毒で…」
実忠は沈痛な面持ちで語った。
晴明は眉を顰めて考え込んでから、言った。
「実は、先日より重い病に臥せっている承香殿の女御さまも、同じように肩と背中が痛むと仰せなのだ」
実忠は目を見張った。
「我が殿と同じ病なのでしょうか?」
「女御さまの方は、大きな岩に押さえつけられているかのように、ろくに身動きも出来ぬご様子なのだそうだ」
うつ伏せに床に伏して、痛い、重いとうめき声を上げるばかりであると聞いた。
何かの呪詛かと、護持僧や陰陽寮を挙げて祈祷に努めているところであった。
「晴明さまは、女御さまをお助けしなくて宜しいのですか?」
実忠は、恐る恐る訊ねたが、晴明は惚けた顔で、
「なに、おれ一人おらずとも、どうということはなかろう」
と言い、腰を上げた。
「とにかく、博雅さまのことが心配だ。疾くゆこう」
晴明が訪ねると、実忠の言った通り、博雅は青い顔で、背中を丸め、脇息に寄り掛かっていた。傍らには、乳母の萩生が付き添っている。
晴明を見ると、少しほっとしたような顔になった。
「おお晴明」
晴明は、博雅の肩の辺りに目をあてて、眉を顰めた。それから、博雅の傍に寄って、
「具合はどうだ」
と問うた。
「余りよくないのだ」
博雅は辛そうに息を吐いた。
「ここ数日、肩を背中が痛んでな。まるで楽にならぬ。背中に何か重い物が載っているような感じなのだ」
「何、おれが来たから、もう大丈夫だ。案ずることはない」
晴明は、博雅の傍らに座して、力づけた。それから、
「博雅、ちと、葉二を貸してくれぬか」
「葉二を?何に使うのだ」
「おまえの病を治すのに入用なのだ」
「おれの病を?」
博雅は不審がったが、すぐに傍らに置いてあった箱を引き寄せ、中から笛を取り出した。
晴明はこれを受け取ると、片方の端を博雅の肩に当てた。
そして、反対側を左手で摘むようにして持ち、右手の人差し指を唇に当て、呪を唱え始めた。
すると、
「お…おう?」
背を丸めて、脇息にすがりつくようにしていた博雅の体が、ゆっくりと起き上がってきた。
「段々と肩が軽くなってゆくぞ」
「真でございますか?」
萩生が声を弾ませた。
そして、晴明が呪を唱えるのをやめ、そろそろと博雅の肩から葉二を離すと、博雅は、背をすっきりと伸ばして、首を回したり、肩を摩ったりしながら、
「先程までの痛みが嘘のようだ。…重荷が外されたような心地だよ」
と嬉しそうに言った。
「そうか、それはよかった」
晴明は微笑した。
「どうやら、おまえに何ぞ憑いておったものがあって、それがおまえを病にしたのだ」
「おれに憑き物だと?」
博雅が目を丸くすると、晴明は、手にした葉二を示した。
「その憑き物を、この葉二に移らせたのさ」
「葉二に?」
「葉二は鬼の笛だ。只の笛とは違う。それに、おまえがいつも肌身離さず持っておるので、おまえの気配が染み付いている。その憑き物は、これをおまえだと思って憑いておるのさ」
博雅は眉を顰めた。
「一体その憑き物とは何なのだ」
しかし、晴明ははぐらかした。
「なに、じきに判るよ」
そして、
「しばらく借りるぞ」
と言って、葉二を懐に仕舞った。
「どうする気だ」
博雅は、葉二を手放しているのが心細いらしく、心配そうに問うたが、晴明は、
「それも、じきに判る」
と言い、博雅の背後に回って、
「さぞ肩も背も張っておろう。おれが揉み解してやろう」
「いや、そんなことまでさせては悪い」
博雅は遠慮したが、晴明は、
「気にするな」
と博雅の肩を揉み始めた。
「すまぬなあ」
晴明に、肩や背を揉み解してもらううちに、博雅は、うつらうつらと心地よい眠りに落ちていった。
翌日、日暮れ時になって、晴明は、再び博雅の屋敷を訪ねてきた。
久し振りにぐっすりと眠って、前日とは別人のように顔色のよくなった博雅は、大層元気な様子であった。
「具合はどうだ?」
晴明が訊ねると、
「もうすっかり快いぞ」
と嬉しそうに肩を回してみせる。
「それはよかった」
晴明は微笑して頷き、
「快くなったのならば、少し付き合ってもらいたいところがある」
「どこだ?」
「とにかく共に来てくれぬか」
「お、おう」
出かける支度をして、晴明と共に牛車に乗り込むと、内裏へ向かうようである。
「内裏へゆくのか?」
博雅が問うと、晴明は頷いた。
「そうだ」
「内裏に何をしにゆくのだ」
「菊を見にゆくのさ」
「菊を?」
博雅は首を傾げた。
「菊を愛でにゆくのか?」
しかし、晴明はそれには答えず、
「内裏で菊の花を世話をしている者のことを知っているか」
と問うてきた。博雅は首を捻った。
「先頃亡くなった、菊作りの名人、山科の荘司どのの他は、どのような者がおるのかは…」
「その、山科の荘司どののことだ」
「何だ」
「どうして亡くなったか、知っておるか?」
「いや…ただ、病とだけだ」
「それがなあ、実は、こんな訳があったのだ」
晴明は語り始めた。
山科の荘司は、年は六十ほど、若い頃から内裏で菊作りに携わっていて、それはそれは気品のある美しい花を咲かせる名人である、評判であった。
ある日、この秋の最初の菊が花開いたことを、清涼殿に奏上した折、承香殿の庭先を通っていると、不意に強い風が吹いた。
そして、荘司の目の前の廂の奥の御簾が、風に煽られて、大きく捲りあがった。
その向こうに、菊の襲の袿を纏った女人が佇んでいるのが、はっきりと見えた。
荘司は息を呑み、その場に立ち尽くした。
天から舞い降りてきたかのような、麗しい姿であった。
女人は、庭の萩を眺めているようで、荘司の存在には気付いていない。
だが、その白い肌、紅い唇、黒く長い髪が、荘司には、手を伸ばせば触れられるかのように間近く見え、その息遣いさえも感じられるような気がした。
思わずよろよろと数歩歩み寄ると、その途端、御簾は元のように下りて、女人の姿を隠してしまった。
以来、その女人の面差しが、瞼の内から去らなかった。
ひと目でいい、あのすっくりと咲く白菊のような姿を、今一度目にしたいものだ。
荘司は、年甲斐もなく、菊の襲の女人に並々ならぬ恋心を寄せていたのである。
だが、そのうち、荘司は、その菊の襲の女人が、帝の寵愛篤い承香殿の女御であると知った。
恋する相手が、帝の后妃であると知り、おのが願望の恐れ多さに震え上がった。
だが、押さえ込めば押さえ込むほど、恋慕の情は燃え上がるばかりである。
夜もろくに眠れず、食べ物も喉を通らず、という有様で、荘司はすっかりやせ細ってしまった。
そうして、ひた隠しにしていたはずの恋情は、荘司のやつれた様子を心配した同輩に、ついその片鱗を零してしまったために、菊作りの翁が承香殿の女御に懸想をしているらしいという噂が広まってしまった。
「身分あやしき老爺が、承香殿さまに恋焦がれているそうな」
これを聞いて興がったのが、若い公達たちである。
「身の程も、年甲斐も考えず、困った年寄りだ」
「一つ懲らしめてやろうではないか」
公達たちは、早速山科の荘司を清涼殿の宿直所に召し出した。
恐縮しきって、簀子の下で平伏している老人に、公達の一人が、殊更厳めしい顔つきをして申し渡した。
「聞くところによると、そなた、恐れ多くも承香殿さまに淫らな妄念を抱いておるそうだな」
荘司は震え上がった。どんな厳しいお咎めがあるかと、更に身を縮めた。すると、
「だが、その心、憐れとも見えぬこともない。そなたのこれまでの忠勤ぶりに免じて、ひと目だけならば、承香殿さまのお姿を垣間見せてやってもよいぞ」
「ま、まことで…?」
荘司は思わず顔を上げた。公達は扇を開いて口元を隠し、荘司の方へ顔を寄せて囁いた。
「何なら、おれが手引きをして、承香殿さまの寝所に忍ばせてやってもよいぞ」
「…」
荘司はものが言えなかった。体がカアっと熱くなり、ぶるぶると震えが止まらなくなった。
あらぬ妄想が頭の裡を駆け巡る。
「ただし、条件がある」
公達の声に我に返った。
「…どのような…」
「あれを見よ」
公達は扇の先で庭の一画を示した。
荘司が見ると、一抱えほどの大きさの、何かの荷が地面に置かれてあった。
朱の地に金糸銀糸の縫取りを施した、美しい錦の袋に包まれている。
「あれを背負うて、庭の池の周りを一巡りすることだ」
荘司は公達の方へ顔を向けた。
「さすれば、あれを背に負うて池の周りを巡れば、私は…」
「おお」
公達は頷いた。
「そなたの願い、叶えてやろうぞ」
荘司は黙って一礼し、立ち上がった。錦の荷の方へ歩み寄る。
荷に手をかけ、持ち上げようとした。
が、荷はぴくりとも動かなかった。
ことのほか、重い荷のようである。
荘司は腰を落とし、両手で荷を抱え込み、足を踏ん張って持ち上げようとした。
が、やはり荷は微動だにしない。
荘司は渾身の力を籠めたが、無駄であった。
持ち上げることはおろか、押しても引いても、荷は地面に根でも生えたかのように動かなかった。
それでも、荘司は諦めなかった。
顔を朱に染めて荷に組み付き、全身を汗まみれにして、いつまでも諦めようとはしなかった。
始めは、痩せた老人が重荷に四苦八苦している様子を、扇の陰でくすくすと笑い合っていた公達たちも、荘司の執念の深さを気味悪く思った。
だが、とうとう、荘司は腰を抜かしたように、どうと座り込んだ。もう立ち上がることもできぬ様子で、顎から汗をぽたぽたと垂らしながら、荒く息をついた。
そこで、公達たちはどっと笑った。
「そんな物がそなたに持ち上げられるはずがない」
「それは、岩ぞ」
「大きな重い岩ぞ」
「力自慢の大舎人が三人がかりで運んできたものじゃ」
「はてさて、恐ろしいものじゃ。そのような老いぼれをなっても、妄執が止まぬとは」
「あさまし」
「いと、あさまし」
頭をがっくりと垂れた荘司を容赦なく嘲った。
「いや、よい座興であった」
「これに懲りて、二度と身の程知らずな欲を抱くではないぞ」
公達たちは、楽しそうに笑い声を上げながら、その場を立ち去っていった。
後には、老いた身をぶるぶると震わせている、山科の荘司が残されたのである。
「何と酷いことを」
博雅は眉を顰めた。
「確かに、主上の后妃方に想いを寄せるは恐れ多きこと。しかし、じっと押し隠していたものを暴き立て、あまつさえ人の慕情を弄び、笑いものにするとは、余りに心無い仕打ちではないか」
「全くだな」
晴明は頷いた。
「あの手の連中は、身分あやしき者など人でないと思うておるものだからな」
「ばかな!」
博雅は憤然とした。
「嬉しい、悲しい、人を恋しい、と思う心は、身分の高い低いに何の関りがあろう。殊更これを貶め、蔑む資格は、たとえ主上であったとて、認められるものではなかろう」
晴明は、ほう、という顔で博雅を見たが、何も言わなかった。
「して、荘司どのはどうしたのだ」
「老いた身で無理をしたせいもあろうが、悔しさと恥ずかしさの余りであろうな、その日のうちに重い病となって寝付いてしまい、三日と保たず、はかなくなってしまった」
「痛ましいことだ」
博雅は顔を曇らせ、
「その荘司どのがどうしたのだ」
しかし、晴明はその問いには答えず、物見窓から覗いて言った。
「着いたようだぞ」
「猩々」に続いて、所謂「老いらくの恋」を扱ったネタですが、他意はありません。
元ネタは、結構有名な演目なので気付いた方もいらっしゃると思いますが、謡曲の「恋重荷」です。
テレビ中継で万作家の石田幸雄さんの間狂言を観たことがあるだけで、実際の舞台はまだ拝見したことはないのですが。…そーゆーの多いなあ…。