日はとっぷりと暮れて、東の山の端からは、晩秋の月がゆらりと満ちた姿を現そうとしていた。
晴明と博雅は、紫宸殿の前庭に立っていた。
簀子に沿って、菊の花が、白に黄に薄紫に咲き連なっていた。
薄闇の中で、その色は、光を放つかのように浮き上がって見える。
「美しいなあ、博雅」
晴明が呟いた。博雅も頷いた。
「さすが、山科の荘司どのが丹精した菊だ。…見事なものだ」
晴明は懐から葉二を取り出し、
「さすが、山科の荘司どのが丹精した、見事な菊よ」
と、博雅の言葉を繰り返した。
すると、
すうっと、青白い影のようなものが笛より立ち上ったかと思うと、それは菊の花の上で蟠り、人の姿となった。
菊の間に青白い煙のような人影が立っている。
始めが朧だったのが、やがてはっきりと面差しが見て取れるようになると、博雅は息を呑んだ。
「そなたは…」
それは、悲しげな翁の顔であった。
「山科の荘司どのではないか」
博雅が呼ぶと、翁は恥じて俯くような様子になった。
―中将さまには、お恥ずかしいお姿を…
「これは一体…。そなた、死して鬼となったのか」
荘司の鬼は、ほそほそと声を出した。
―我が妄執、死してなお鎮め難く…
―鬼となり、愛しきお方にとり憑きましてございます
「では、承香殿の女御さまの病とは…」
「このお人が憑いておるのさ」
晴明が言った。
―確かに、私が持てと命じられた荷は、大層重き荷でありました
―しかし、私がそもそも心に負うていた荷は、これと比べることもできぬほどに重き恋の重荷
よしなき恋を菅筵
伏して見れども
寝らればこそ
苦しや独寝の、我が手枕の肩かへて
持てども
持たれぬそも恋はなにの重荷ぞ
―この荷の重さを、かのお方に知らしめんと
―我が愛しきお方に知らしめんと
―我が想い恨み尽きることなく
―あのお方を押し潰しておるのでございます
さのみ重荷は
持たればこそ
重荷といふも
思なり
浅間の煙
あさましの身や
衆合地獄の
おもき苦
さて懲りたまへや懲りたまへ
「…それは」
博雅は思わず声を上げた。
「それは余りに無体ではないか。そなたを辱めた者たちに苦しみを与えるのならば、判る。だが、承香殿さまは何も御存知ではない。そのお方に苦しみを与えるとは、筋が違うではないか」
荘司の鬼の顔が歪んだ。
「そなたの想いを知らぬことこそが、罪と言うか」
博雅は悲しそうに言った。
「博雅」
晴明は宥めるように博雅に触れた。
「このお人とて、それは重々判っておるのだ。判っておるからこそ、おまえにも憑いたのだ」
そして、鬼の方へ目を向けた。
「そうであろう?山科の荘司どの」
青白い鬼はかすかに頷いた。
「おれに?」
博雅は問い返した。
「そうさ、荘司どのはおまえに助けを求めたのだ。…愛しい筈のお人に、重い苦しみを与えずにはおられぬ、我が妄執を救うて下され、とな」
「…何故、おれに…」
―中将さまは、お忘れでありましょう
―私がこんな有様になる少し前
―この南殿(紫宸殿)の菊を御覧になり
―見事な菊よ、さすがは名人よ、とお誉め下さった
―そして、心赴くままに、見事なお笛をお聴かせ下さった
「おお、忘れてはおらぬ」
博雅は大きく頷いた。
「覚えておるぞ。暫く前に、ここでそなたと言葉を交わし、美しい菊を眺めながら笛を吹いたのだ」
所用で紫宸殿の廂を歩いていた博雅は、たまたま庭の菊に水をやっていた荘司を見かけ、声を掛けたのだ。
―その中将さまの優しさに、お縋り致しました
「それだけではないであろう」
晴明が優しい声で言った。
「そなたが、博雅さまに縋ったは、他にも理由(わけ)があるのであろう?」
荘司の鬼は深々と頭を垂れた。
―左様でございます
「何だ?その理由とは…」
―私は、若い頃、中将さまの御父ぎみ故桃園兵部卿宮さまのご生母であらせられる更衣さまを、密かにお慕いしておりました
「何だと…」
―更衣さまは、お姿が白菊のように清らかでお美しいばかりでなく、御孫ぎみに当たられる中将さまと同様、大層お優しい方でございました
―ことのほか、菊の花がお好きで、毎年、菊の季節になりますと、私の作りました花をお誉め下さり、暖かな労わりの言葉を下さったのです
「そうであったか…」
―それに致しましても
―あの頃は、更衣さまが、私の丹精した菊を美しいとお誉め下さった、そのお言葉を頂いただけで満ち足りておりましたのに
―お姿も、ほんの一度、端近にお立ちのお姿をお見かけしただけで、この上も無く嬉しいこと、勿体無いこと、と思うておりましたのに
―今や
―承香殿の女御さまに寄せる我が妄執の、何と恐ろしきことよ…おぞましきことよ
そうして、鬼となってしまった荘司は、さめざめと泣いた。
泣くうちに、その姿が少しずつ薄れてゆく。
晴明が静かに言った。
「博雅、笛を」
博雅は頷いて、葉二を唇に当てた。
秋の日の光のように、澄み切って暖かな音色が、菊の花の間を漂ってゆく。
荘司の鬼は、泣くのを止め、顔を上げた。
その顔にふっと笑みが浮かぶ。
穏やかな、その笑顔のまま、青白い姿は月の光に溶けてゆくようにして、消えた。
博雅は、暫く笛を奏でていたが、やがて葉二を唇から離すと、ふうっと吐息をついた。
「行ってしまわれたのだな」
「ああ」
晴明は頷いた。
その夜のうちに、承香殿の女御の病は、すっかり快復したと言う。
思の煙立ち別れ
思の煙立ち別れ
稲葉の山風吹き乱れ
恋路の闇に迷ふとも
跡弔はゞその怨は
霜か雪か霰か
終には跡も消えぬべしや
これまでぞ姫小松の
葉守の神となりて
千代の影を守らんや
千代の影を守らん
結
元ネタの「恋重荷」では、荘司に重荷を負わせたのは女御自身なので、恨まれても仕方がないかな、荘司あっさり成仏しすぎという感想が出てくるわけですが。
でも、「葉守の神となりて/千代の影を守らんや」は、「これからもずっとお前を見守ってるぞ」という意味で、全然成仏できてない、とも取れるそうです。
そっちの方がしっくり来ますけど…怖いですね。
実は、前編をアップしてからこの解釈を聞いたので、こっちの解釈で話を作った方が面白かったかなあ、とか思ってます。
「鬼小町」みたく「救いたくても救えぬ」という結末で。…イヤか。