「調べこととは、何だ」

動き出した車の中で、博雅が訊ねた。

「調べるというかな。会って確かめねばならぬお方がいる」

「誰だ、それは」

「西ノ京のお人さ」

「西ノ京…」

博雅は、少し嫌な予感がした。

案の定、車は、見覚えのある破れ屋の前に付けた。

車を降りて、晴明が戸をほとほとと叩くと、中から、

「開いておるぞ」

と嗄れた声がいらえた。

ガタガタと戸を開けて中に入ると、板の間にごろりと寝そべっていたのは、蘆屋道満である。

「道満どの」

「おう、晴明。そろそろ顔を見せる頃だと思うておったわ」

晴明は土間に立ったまま、

「お聞きしたいことがあって、参りました」

「猩々のことであろう」

道満はにやにやした。

「猩々は大猿の姿を為すとはいえ、人語を操る知恵高き霊獣。それを山奥より誘き寄せ、捕えてしまうことができるのは、この都では道満どのお一人…」

晴明は微笑して問うた。

「酒をお使いになりましたか」

「猩々は酒には目がないからのう。丹後の山の深奥に分け入り、酒の匂いでもって誘き寄せ、桂川の河原でたんまりと飲ませてやったのじゃ」

「生き血を抜いたのは、源庶明さまのご所望ですか」

「晴明!」

博雅が息を呑んだ。道満は涼しい顔で頷いた。

「そもそものことの起こりは、庶明がわしに頼んで、年若き男の如き精力を得たいと言うてきたことじゃ」

「茜姫のためですね」

「年寄りが若い娘にのめり込むと見境がなくなるもんじゃ」

道満は下卑た笑いを浮かべた。

「それで、わしも丁度猩々の肝を手に入れたいと思うていた折であったのでな。猩々の生き血を飲むと二十歳そこそこの若者の如き精が身に付き、若い女を幾人でも楽しませることが出来よう、と言うて、庶明に猩々の好む高価な酒を購わせたのじゃよ」

「参議さまを騙したのですか?」

非難がましく博雅が見る。が、道満は平気な顔だ。

「騙してはおらん。猩々の生き血を飲めば、精が付くのは嘘ではないぞ。…ちと、大袈裟に語っただけじゃ」

「…」

「ところが、どうやら、少々効き過ぎたようですな」

晴明が言うと、道満は首を竦めた。

「あれは庶明がいかん。盃に一杯で十分じゃ、と言うに、何杯も何杯も飲みおったからの」

「過ぐると、猿の如き姿になるぞ、と、庶明さまを脅しませんでしたか?」

晴明が問うと、

「さあ、どうじゃったかのう」

道満はそらとぼけたので、晴明は苦笑した。

「よく判りました。概ね、私が思うていた通りでございました」

「そうか」

道満は目を閉じた。

「ならば、もう去んでくれんか。…わしは昼寝の最中じゃ」

「これは失礼を」

晴明は軽く頭を下げてから、踵を返し、戸口から外へ出た。後から出た博雅が、律儀にガタピシャと戸を閉める。

「晴明、おれには何が何やら判らぬのだが」

車に乗り込んでから、博雅が問うた。

「桂川の大猿は、参議さまの依頼で、道満どのが捕えた猩々だということは判った。血が抜かれていたのは、庶明さまがこれを飲んで精力を得ようとした為だ。しかし」

首を捻る。

「それが、参議さまのお屋敷に出没する獣と、どう関りがあるのだ」

だが、晴明は薄く笑って、

「すぐに判るさ」

と言うばかりであった。



すっかり日も落ちた頃に、庶明の屋敷に戻ると、門前で直昌が待っていた。傍らに何人かの下人が松明を持って付き添っている。

晴明と博雅の姿を見ると、顔を曇らせた。

「困ったことになりました」

「困ったこと?」

「女人方は如何なされましたか」

「ご指示通り、婢女どもには姫の方から一時の暇をやり、姫は女房どもと清水寺へ行かれました。今夜はあちらに参籠なさいます」

「それは重畳」

晴明は頷いて、

「して、困ったこととは?」

「先程、茜姫さまから文が届いたそうです」

「ほう」

「すると、急に参議さまが怒り出して、私や男どもをみんな家から追い出し、このように門を堅く閉ざして、ご自分一人で立て籠もってしまわれました」

「何と」

晴明は眉を顰めた。

「茜姫さまのお文の中身は…」

「傍に居た者の話によると、どうやらお断りのお文のようだった、と…」

と直昌が言った途端。

凄まじい咆哮が屋敷の内から聞こえた。

驚いて、一同が声の方を見ると、大きな黒い影が、屋敷の内から塀の上に飛び上がったのが見えた。

下人が松明を翳すと、その灯りに照らし出されたのは、赤茶けた色の毛をした一匹の大猿であった。

顔は棗の如く赤く、目は金色に光り、牙を剥いた憤怒の形相である。

「あれが、猩々か」

博雅が掠れた声で呟いた。

弓を持っていた下人が、矢を番えて猿を狙ったが、素早く晴明が制した。

「無闇に傷つけてはなりませぬ。…あれは庶明さまですぞ」

「何!?」

博雅と直昌は、目を剥いて晴明と塀の上の猿とを見比べた。

晴明はじっと猩々を見据えると、懐に手を入れながら、そろそろとこれに近寄った。

すると、猩々は急に怯えたようにキーッと叫ぶと、塀の上から飛び降りた。

そして、夜の闇の中に消えてしまった。



続く


猩々について補足。

唐代の伝奇小説を宋の李ムがまとめた『太平広記』巻446「猩猩」の条に、猩々の姿かたちについて、「その形唯だ猿のみ。その面唯だ人のみ。」あるいは「美人の如し」とあります。人語を解し、酒好きなのは共通。

中国では、唐の時代には、そろそろ猩々=猿の類というイメージが広がりつつあったようです。



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