「これはいかん」

晴明は直昌を振り返った。

「少将さま、茜姫さまのお屋敷を御存知ですか」

「はい。…あの方の兄上と懇意にしておりますので」

「案内して頂けますか」

「おい、晴明」

博雅が声を掛けた。

「どういうことだ、あの猩々が庶明の参議さまだ、というのは」

「説明は後です。とにかく、今は一刻も早く茜姫さまの許へ」

晴明と博雅、そして直昌が乗り込んで、車はごとりと動いたかと思うと、まるで牛が暴走しているかのような速さで走り出した。

目当ての屋敷には直ぐに着いた。

門前に車を着けると、屋敷の内が何やらざわざわと騒がしい。

と、内側から門が開いて、下人が一人転がり出てきた。

車から降りた直昌を見ると、少しほっとした顔になって傍へ寄って来た。

「平少将さま、これはよいところへ…」

「何かあったのか?」

と、直昌が問うより先に、晴明が、

「大きな猿の化け物が入り込んで、暴れているのですね」

「は、はい、その通りです。私は助けを呼ぼうと主人に命じられまして…」

「茜姫さまのご寝所はどちらですか?」

「女の方々は、西の対に…」

「急ぐぞ、博雅」

「お、おう」

晴明は屋敷の内へ駆け込み、博雅と直昌も後を追う。

屋敷の内は大混乱で、猿に殴られたり、噛み付かれたりしたらしい下人たちが、そこらじゅうに倒れている。

真っ直ぐ西の対を目指すと、蔀戸が蹴破られていた。

中から女の悲鳴が聞こえる。

晴明たちが沓も脱がずに、簀子に駆け上がると、中は酷い有様で、御簾は破れ、几帳は全て倒れ、調度類があちこちに散らばっている。

その奥に、こちらに背を向けて、赤い毛の大猿が仁王立ちに立っていた。

大猿の向こう側には、部屋の隅に追い詰められた女が二人、身を寄せ合って震えているが見える。

ごく若い少女と、三十才ほどの女性で、茜姫とその母であると見えた。

「いや!来ないで!」

「た、誰か!」

怯えて、悲鳴を上げている。

大猿は、片手をずいと差し伸べ、少女の体に手を掛けようとした。

「いかん!」

博雅は、咄嗟に足元に転がっていた硯を拾い上げて、大猿に向けて投げつけた。

硯は、見事大猿の後頭部に命中し、大猿は、

―ごう

と一声吼えると、振り返った。

三人の男の姿を見ると、歯を剥き出しにして威嚇する。

その顔は、酒に酔っているかのように、赤い。

「いいぞ、博雅」

晴明は声を掛けながら、懐から取り出した蝙蝠扇を開くと、口の中で呪を唱えながら、ふわりと投げた。

扇は鋭く宙を切って、大猿の眉間を打った。

すると、大猿は、急に力が抜けたかのように、ふらふらと座り込んだ。そして、頭を抱えて、背中を丸めた。

その体がみるみるうちに縮んでゆく。

体を覆った毛が見る間に消えて、やがて、それは、一人の裸の老人か、と見えそうになった。

「今のうちに、女人がたを―」

晴明が声を掛け、博雅と直昌が女たちの許に駆けて行った。

「ささ、こちらへ…」

半分気を失ったような女たちを抱えるようにして、その場から連れ出そうとした。

と、蹲っていた老人が急に跳ね起きた。

「連れてゆくなア」

吼えるように叫んだかと思うと、再び体がむくむくと膨れ上がった。赤い毛が体を覆ってゆく。

博雅は、直昌と女たちを急いで妻戸の外へ押し出すと、戸を閉め、その前に立ち塞がった。

―ごう

そこのけとばかり、大猿は威嚇した。

博雅は顎を引き、八つ裂きにされてもここからのかぬ、とばかりに、大猿をにらみつけた。

大猿は更に顔を赤くし、片手を振り上げて、博雅を打とうとした。

が、一瞬のうちに、晴明が、博雅の前に回り込み、先程の扇を手にし、力を籠めて大猿の額を打った。

大猿は仰け反り、仰向けにどうと倒れた。

そうして、再び人の姿へと変じてゆく。

博雅は目を見張った。

「これは…庶明さま…」

素裸で、頭も蓬髪であったが、白目を剥いて伸びている男は、紛れも無く源庶明であった。

「何故参議さまが猩々に…」

晴明はふんと笑った。

「とりあえず、お屋敷へお連れしよう」



茜姫の家の人々には、

「大猿の化け物は、無事に調伏致しました」

と告げておいて、晴明たちは、こっそり庶明を運び出し、屋敷へ連れ戻した。

やがて、目を醒ました庶明は、先日の居丈高な様子が嘘のように、晴明たちの前で頭を項垂れた。

「昨日、蘆屋道満どのにお会い致しました」

晴明が言うと、泣き出しそうな顔になる。更に、

「道満どのに、猩々の生き血を過ぐると、猿の如き姿になる、と言われませなんだか」

と、問われると、床に這い蹲った。

「道満の言う通りであった。あれから、わしは夜になると血が滾り、無性に女が欲しゅうなるようになった。…そして、気がつくと、猿の如き姿になって、女たちの居る対の周りをうろついておるのじゃ」

血が滾るだけであれば、幾人かいる女の許へ通えばよい話なのだが、猿の姿に変じてしまうとなれば、人を近づけるわけにはゆかない。

庶明は、一人悶々と悩み続けていたのであった。

「詰まらぬ見栄を張らず、もっと早く然るべき筋に相談すべきでありましたな」

晴明は手厳しく言った。

「危うく、茜姫さまに害を加えるところでありましたぞ」

庶明は返す言葉もない、というように更に頭を深く垂れた。

「幸い、姫も姫の親御さまも、大猿の化け物の正体には気付いてはおられませぬ。これに懲りて、二度と年不相応な色欲をお出しになられぬことですな」

「せ、晴明」

庶明は縋りつくように言った。

「わしは一体どうすればよかろう」

「ご案じ召されませぬな。これより私が猩々の呪いを解く術を施します故」

「おお…!」

晴明の言葉に、庶明は安堵の余り崩れ折れそうになった。

「た、頼む」

庶明の寝所に、御幣が五つ並べられた大層仰々しい祭壇が設えられた。

晴明は、その傍らに仰向けに伏した庶明に、

「これをお飲み下さい」

と、薬湯のようなものを与えた。

それから、庶明と祭壇を挟むような形で座し、祭壇に向かって一心に呪を唱え始めた。

博雅と直昌、そして清水寺から帰った小百合姫が見守っている。

半刻ほどが発った。

不意に、庶明の口から何やら赤い煙のようなものが立ち上った。

「おお」

一同がどよめく中、更に晴明は呪を唱え続ける。

庶明の口からは、なおも赤い煙が吐き出され続けたが、やがて、赤い色が徐々に薄くなり、半刻ほど経ってから消えた。

すると、晴明は呪を唱えるのを止めて、厳かな口調で告げた。

「終わりました」

「せ、晴明」

庶明は頭を浮かせた。

「も、もう呪いは解けたのか?」

「はい、解けました。もう二度と大猿に変ずることはございません」

庶明は大きく息を吐き、一同の口からも安堵の息が漏れた。



庶明の屋敷を後にした博雅は、車の中で、眉を顰めた。

「しかし、恐ろしい話だな」

「そうか?」

晴明は澄ました声で応じた。

「だって、そうではないか。獣の生き血を飲んで、その獣の変じてしまうとは。お前は恐ろしくはないのか、晴明」

すると、晴明は涼しい顔で答えた。

「そのようなことが、ある訳がないではないか」

「何だと?」

博雅は呆気に取られた。

「よく病人に精を着けさせると言うて、鯉の生き血を飲ませるが、そうやって鯉に変じてしまった者がおるか?」

「し、しかし、庶明さまは確かに…」

「あれは、猩々の生き血を飲んだせいではない。道満どのが仕掛けたことさ」

「どういうことだ」

「道満どのは、猩々の血を呑むのが過ぎると、猩々のような姿に変じてしまうやもしれぬ、と庶明さまを脅したのだ」

「だから…」

「いや」

博雅が口を開こうとすると、晴明はかぶりを振った。

「ほんの戯れ事さ。戯れ事であったのだが、庶明さまは真に受けて震え上がってしまった。猩々に変じてしまうのやもしれぬ、と思い悩んだのだ」

「それで…」

「猩々は霊力の強い獣であるから、怨みの念のようなものも少しは残っていたのだろう。庶明さまがくよくよと思い悩んだせいで、その思い込みがまことになってしまったのさ」

「そういうものなのか」

博雅は、何とも腑に落ちぬような顔をしたが、晴明は肩を竦めた。

「そういうものさ」

「ならば、おまえが先程行った術は…」

「猩々の呪いを祓ったような形をして、庶明さまの思い込みを解いたのさ」

「ふうん」

博雅は納得したような、しないような顔で頷いたが、

「しかし」

また眉を顰めた。

「そうまでして、年若き女人と想いを遂げたいと思うものであろうか。茜姫さまは、お美しいとは言え、まだ女童のようではないか」

晴明はせせら笑った。

「世の男というものは、大方、女というものは若ければ若い方が好い、と思うものではないか?」

「おれは、そうは思わぬ」

博雅は怒ったような声で言った。

「余りに若い女人では、まだ心など稚けなくて、良き話し相手にならぬではないか」

「うむ」

「男と女などは、年老いて房事のことなど無くなってからが本筋というものだ。その折に、しみじみと来し方を語り合えるようなお方ではないと、意味がないではないか」

「おまえの言う通りだよ、博雅」

晴明は頷いた。

「だが、そうは考えぬ男が多いのさ」

「…」

「己の衰えも省みず、若く瑞々しい女体の快楽に惑わされてしまうのだ」

女の方とて、老いた男より、若く健やかな男の方が好いと思うであろうにな、と晴明は苦笑した。

「それもそれで、悲しいことなのかもしれぬな」

博雅は深々と吐息をついた。

物見窓の隙間から、秋の風が、虫の声を運んできた。

季節はすっかり秋であった。




もしかしたら、お気づきになった方もおられるかもしれませんが、この小説、シャーロック・ホームズ・シリーズの「這う人」が原案になっています。

実は、最近、ちょっとした実験を思いつきまして、それが、ホームズのシリーズを陰陽師の世界に翻案してみよう、というものなのです。

で、その試みを実行に移してみるのに当たって、かなりSFチックというか現実離れしている内容の「這う人」を選んだのでした。

これって、ドイルの真作かどうかも疑われているというトンデモ話なんですが、それだけに一番陰陽師の世界に移すのが簡単でした。(笑)

他にも、「まだらの紐」とか「サセックスの吸血鬼」とか考えています。よろしければ、リクエストなどにもお答えします。可能な範囲で。「最後の事件」とかはダメですよ〜|。

まあ、「余り晴明と博雅が仲良くないのでつまらない!」と物足りなく思われる向きも多いとは思いますが、らぶらぶな晴博はよそ様にもいっぱいあると思うので、そこはかとなく仲良しな二人、というのを楽しんで頂ける方だけどうぞ。

あと、シャーロキアンの方からの突っ込みもご容赦願います。パスティーシュの一種とお目こぼし頂ければ〜。へこへこ



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