翌日、晴明と博雅が、源庶明の屋敷を訪ねると、庶明は留守であったが、小百合姫に仕える女房が、直ぐに二人を迎え入れた。

姫の寝起きする、東の対に通されると、直昌が待っていた。姫は御簾の奥に座していたが、ひどく怯えている気配は伝わってくる。

「晴明どの、わざわざご足労頂き、忝く存じます」

直昌は礼儀正しく晴明に挨拶をした。

晴明も丁重に礼を返し、

「昨夜は変わったことはgございませんでしたか?」

と問うと、直昌は面を曇らせた。

「それが、大変なことがあったのです」

前夜のことである。

すっかり日が落ちて、辺りも暗くなったかという刻限、用があって庭に面した簀子を歩いていた若い女房が、突然何者かに襲われた。

悲鳴を聞いて、直昌が家人と共に駆け付けると、女房は庭に引き摺り下ろされ、何か大きな毛むくじゃらの生き物に押さえつけられていた。

獣は、女房の纏う衣を爪で引き裂いているようである。

「おのれ、物の怪!」

直昌が男共と抜いた刀を振り回し、大声を上げて威嚇すると、獣は驚いて、女を放し、闇の中へと消えていってしまった。

女房の衣は引き裂かれて酷い有様であったが、幸い肌身までは傷ついていなかった。

件の獣は、この女房を犯さんとしたものであるらしい。

「ふうむ」

晴明は眉を顰めた。そして、直昌に向かって言った。

「少将さまは、その獣が、先頃桂川で見つかった大猿の眷属であるとお考えとのことですが」

「はい」

直昌は頷いた。

「私の見たところ、庭に残った足跡は間違いなく猿のもの。…あのように大きな猿は見たことがありませんが、桂川で死んでいたという大猿の眷属である言うなら、頷けます」

「毛が残っていたそうですが」

「はい。昨夜も庭や、襲われた女房の衣などに付いておりました」

「拝見できますか」

「もちろんです」

直昌は傍らに置いてあった手箱の仲から、二つに折った紙を出し、これを開いて晴明の膝先に置いた。

紙の上には、長い、赤茶けた毛が幾本も並べてある。

一本手に取って、庭の方を向き、日の光に透かすなどしていた晴明は、頷いて、毛を紙の上に戻し、元通り畳んで直昌に返した。

「私は、桂川の大猿の毛を、大江東宮学士さまより見せて頂いておりますが、確かに同じ物に相違ありませぬ」

「では、やはり」

「猩々がもう一匹いて、この屋敷の中をうろついておるということか?」

博雅が問うたが、晴明は、

「さあて…」

とはっきりしない。

「明るくなってから、屋敷の内や周りを探させたのですが、どこにも見つからぬのです」

直昌が言った。

「どういうことだ」

博雅の問いに、晴明が口を開きかけた時、渡殿の方から、足音も荒く歩いてくる気配がした。

「小百合!小百合!」

大声で叫んでいる。

「まあ、父ですわ」

御簾の向こうから、小百合姫の細い声が聞こえた。

すぐに姫の父、源庶明が踏み込んできた。

年の頃は六十近く、鬢の毛に白いものが目立っている。

小百合姫は若い夫人に産ませた末の子で、もう幾人も孫がいる。

博雅と同じく醍醐天皇の孫に当たり、娘の一人は今上帝に入内して、宰相更衣と称されている。

晴明の姿を見ると、顔を歪めた。

「誰が、この卑しき男を我が屋敷へ入れたのだ!」

「参議さま…」

慌てて直昌が庶明の袖を引いた。

「私が直昌さまと源中将さまにお頼みして、来て頂いたのです。どうか、そのように大きな声をお出しにならないで下さいまし」

御簾越しに姫が嗜める。細いが、凛とした声だ。しかし、

「馬鹿者!」

庶明は更に大声で怒鳴った。

「わしの目の黒いうちは怪しげな陰陽師などに、我が屋敷を汚させぬわ。とっとと摘み出せ!」

「お言葉ですが、父上。この対には真に怪異が続いているのです。それなのに、父上がまともにとりあって下さらないので、こうして晴明どのをお頼みしているのですよ」

姫が強い口調で言うと、庶明は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「あんなものは女共の妄想だ。下らぬ物語などを読み過ぎたせいで、おかしな夢を見ておるのだ」

そして、手にした太刀の柄に手をかけ、

「とっとと去ね、陰陽師。行かぬなら、このわしが引き摺りだしてやす」

と、晴明に迫った。

しかし、晴明は落ち着き払って庶明の顔を見上げ、

「やれやれ」

と立ち上がった。

「参議さまのお手は煩わせませぬ。それではお暇いたします」

直昌と姫の方に丁寧に頭を下げ、すたすたとその場から立ち去った。

「ああ、おい、晴明」

博雅も慌てて後を追う。庶明の傍らを擦り抜けようとした時、

「源氏の中将ともあろう者が、あのような下賎な者と親しく交わるとは…」

と吐き捨てるように言われた。

博雅は足を止めた。真っ直ぐに庶明を見据えた。

その眼差しに、庶明は気圧されたように目を逸らした。

博雅は静かな声で言った。

「晴明どのよりもやんごとなき身分の方々にも、晴明どのほど魂が高貴でない方は大勢おられます」

そして、晴明の後を追って、足早に立去って行った。



門前で車に乗ろうとした時、直昌が後を追って来た。

「申し訳ございませぬ。お二方には大変なご無礼を…」

「いや、少将どのには咎はございませぬ。お気に病まれませぬよう」

博雅が慰めたが、直昌は溜息をついた。

「中将さまもご存知のように、本当はもっと穏やかな方で、あのように粗暴なお人柄ではないはずなのですが…ここ数日、どこか苛々されていて、あのように何かと言うと大声をお上げになるのです」

「ここ数日、ですか」

晴明はすうっと眉を顰めた。

「はい」

直昌は頷いた。それから、声を落とした。

「実は、ひと月程前、さる姫に懸想をされまして」

「ほう、あのお年で、ご健勝な」

「それはよいのですが、お相手の姫が…」

「どんな方なのです」

「頭中将さまの姫君で、茜姫と呼ばれる方で、まだ十五にもならぬ稚けなき姫なのです」

「何と」

「ごく最近裳着の儀を済ませたばかりで、咲き初めた桃の花のようにお美しいとの評判を聞いて、何かの折に垣間見をなさったそうで。そして、ひと目で恋焦がれてしまわれたとか」

「それはそれは」

「以来、熱心にお文を出しておられましてな。お年とは言え、やんごとないご身分ですから、茜姫の親御さまもとかく反対というわけではないようなのですが、当の姫君が乗り気ではなくて」

相手は、自分の祖父ほどの年である。無理もないことであろう。

「それで苛立っておいでなのですね」

「恐らくは」

「ふうむ」

晴明は考え深い眼差しになった。

「晴明どの、私達は如何すればよいでしょう」

直昌は不安そうに晴明を見た。

「ああ、こんなことになりましたので、後でお文を差し上げようと思うておりました」

「このままでは、お屋敷の女の方々が危のうございます。何か口実を設けて今日中によそへお移しなさった方がよいでしょう」

「やはりそうですか」

直昌は顔を引き締めた。

「下婢などには、姫の口からいっとき暇を出して頂き、姫とお傍の女房方は、思い立ったからと言って、寺詣でへお出かけになるとよいでしょう」

「判りました、姫にそう申し上げましょう」

「姫はしっかりした方のようにお見受けします。お任せして大丈夫でしょう」

「はい」

「私は、博雅さまと少々調べることがございますが、暗くなってから、またこちらのお屋敷へ様子を見に参ります。少将さまは…」

「姫を然るべきところへ送り届けてから、こちらへ戻って参ります」

「よろしゅうございます。では、後ほど」

晴明は一礼し、博雅の後に続いて車に乗り込んだ。



続く


えっと、掲示板の方でご指摘もあったので、ここで猩々について軽く述べさせて頂きます。

「猩々」という言葉は、『礼記』「曲礼」上に「猩々能く言うも、禽獣と離れず」や『爾雅』「釈獣」に「猩猩、小さくて啼くを好む」と見えるのが、一番古い史料になります。どんな獣であるか判らないため、中国でも古来から様々な説があったのですが、猿の類と言われるようになったのは、明の李時珍『本草綱目』からのようです。この頃には、南方からオランウータンなどの類人猿に関する情報が中国にもたらされていて、そこで猩々と結びついたのであろう、と中野美代子氏が指摘されています。

とすると、平安時代に猿の猩々が出てくるのはおかしいやん!ということになるのですが、これにはちと訳がありまして、それはおいおい。

一応、この話での猩々のイメージは、映画「もののけ姫」に登場した「山の深奥に棲む人語を操る大猿」を根拠にしております。ご了承下さいませ。



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