猩々

 博雅が、例によって頼まれごとを携えて、土御門の晴明の屋敷を訪れたのは、夏の盛りもようやく過ぎて、朝夕などは随分と過しやすくなったかと思われる時節であった。

二人で、いつものように簀子で差し向かいに座り、夕暮れの風に当たりながら、ほろほろと酒を呑んでいたが、やがて博雅が口を切った。

「おまえは、もう聞いておるかな」

「何だ」

「桂川の河原で、大きな猿の屍骸が見つかったという話だ」

「知っておるとも」

片膝を立て、柱に背を預けた晴明は、目を伏せたまま、頷いた。

十日ほど前のことである。

嵐山の麓辺りの桂川の河原に、大きな獣の骸が打ち捨てられているのを、橋を渡っていた東宮学士の大江維持の一行が見つけた。

維持自らが河原に下りて調べてみると、身の丈が八十尺はあろうかという、巨きな猿に似た生き物である。

全身が赤茶けた毛で覆われていて、哀れにも鋭い刃物のようなもので喉を切り裂かれ、血を抜かれて死んでいた。

名高い学者である維持は、この大猿に大層興味を持ち、これを持ち帰って詳しく調べようと、一旦屋敷に戻って荷車を用意した。

ところが、河原に引き返してみると、大猿の骸は跡形もなく消えてしまっていたのである。見張りのために残してあった下人は、正体もなく眠りこけていて、何も覚えていないという有様であった。

「身の丈が八十尺もあるという猿など、俄かには信じられぬ話だが」

博雅が首を傾げると、晴明は至極あっさりと、

「あれは猩々だ」

と言った。

博雅は目を丸くした。

「何故判る」

「大江の東宮学士さまに見せて頂いたのさ」

「何をだ」

「毛だ」

「毛?」

「東宮学士さまは、予め骸から毛を数本抜いておられたのだ。それをおれに見せて下さったのさ。これは一体いかなる生き物であろうか、とな」

「猩々とは、何だ」

「猩々とは、唐土の南の方に棲む大きな猿に似た生き物で、人語を解する霊獣だ」

「唐土の大猿が、何故この国におるのだ」

「この国にも、山の奥深く群れを為して棲んでおる、という話を聞いたことがある。東宮学士さまに見せて頂いた毛が赤い色をしていたので、そうではないかと当たりをつけたのさ」

「ふうん」

博雅は感心したように頷いた。

「それが都の外れに現れた、というのか」

「そこがどうもよく判らぬのだがな」

「刃物で殺められておったそうだな」

「うむ」

「可哀想なことをする」

博雅は顔を顰めた。そして、

「それで、どうもその猩々にも関りがあると思えてならぬのだが」

と前置きして、

「今日、内裏で平少将どのにおまえに話してくれと頼まれたのだよ」

と語り始めた。

少将平直昌は、最近、参議源庶明の娘で、小百合姫と呼ばれる女人の許へ通っていたのだが、ある夜、その姫が直昌に訴えたのだという。

「近頃、屋敷の中を物の怪がうろついておるようなのです」

姫の話によると、ことの起こりは、五日程前のことであった。

早朝、廂に出て庭を眺めていた姫は、簀子の下の地面に大きな獣の足跡がついているのを見つけたのだ。

「お屋敷で飼っている犬か猫ではないのですか」

直昌が言うと、姫は大きく首を振った。

「あれは犬や猫の足跡ではありません。ずっと大きくて、その上、人のように五本の指がありましたわ」

気味悪く思って、すぐに掃き清めさせたが、その次の朝も、またその次の朝も、姫の寝起きする対の周りで、その足跡は見つかったのである。

怖くなって、父の庶明に訴えたが、

「そんな獣が屋敷の内に入ってくる訳がない」

とまるで取り合わない。

そうして、直昌が訪れた夜の前夜のこと。

姫は、夜中に聞きなれぬ物音で目を醒ました。

何だろうと耳を済ませていると、何かがごそごそと簀子の上を這い回っている気配がするようである。

仕えている女房かと思って、

「誰そ」

と声をかけたが、返事はなく、ただ無言で簀子を行ったり来たりしている。

荒々しい息遣いに、獣じみた声が混じるのが聞こえるので、姫は恐ろしくなった。

そのうち、その生き物は、ガタガタと蔀戸を揺らし始めた。

まるで中に押し入ろうとするかのようであった。

姫は恐ろしさの余り、寝床の中で気を失ってしまったようである。

朝になって、女房たちを呼ぶと、姫の寝所の近くに控えていたものは、みな簀子を動き回る生き物の気配を感じた、と言う。

そして、やはり、庭に大きな獣の足跡が見つかったのである。

父親に訴えたが、

「夢でも見たのだろう」

と相手にしてくれぬので、折りよく、夜になって通ってきた直昌に泣きついたのであった。

「何しろ、少将どのはかの姫に夢中であるからなあ、すぐさま晴明どのに相談してみてくれぬか、とおれのところに来た、という訳だ」

「それで?」

「それで、とは?」

「おまえ、先程この一件が桂川の大猿と関りがあるように思えると言うておったではないか。それはどういうことなのだ」

「そう、それよ」

博雅は頷いた。

「少将どのが泊まった夜は何事もなかったそうだが、朝になってから直昌どのは自分で姫の寝所の外を調べてみたそうだよ」

掃き残してあった前々夜の足跡を見たところ、直昌は間違いなく大きな猿の足跡だと思った。その上、簀子の端や柱に何かの毛がついている。

「桂川の大猿の眷属がうろついているのでは、と少将どのは考えておられる」

「ふうん」

晴明は考え深そうな顔になった。そして、

「今夜はどうなっている」

と問うた。

「今宵も少将どのがお泊りになるそうだ」

「ならば、今夜のところは大丈夫であろうな。明日の朝にでも、源参議さまのお屋敷にお伺いしよう」

「そうか、行ってくれるか」

「ゆこう」

「ゆこう」

そういうことになった。



続く


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