朱呑童子の言った通りであった。
博雅が笛を奏でながら行くと、嘘のように辺りから凶凶しい気が消え、鬼どもの忌まわしい姿も見えなくなった。
博雅自身、葉二に唇をあてた瞬間、すうっと恐怖心が薄らいでいた。歩みを進める彼の心の中はただ、楽への愛と、晴明の身を案じ、何としてでも救わねばならぬ、という強い想いだけで満たされていた。
どれほど歩いただろうか。はっと我に返ると、博雅は、御霊社の拝殿の前に立っていた。
拝殿の扉は堅く閉ざされていたが、拝殿の建物全体がおぼろげに赤い光を発していた。
―誰かおるぞ
―誰か笛を吹いておる
―誰そ
―笛を吹いておるのは誰そ
一人が話しているようでもあり、大勢が口々に言い立てているようでもあり。
博雅は思い切って唇から笛を離した。
「わたくし、皆様にお願いの儀があって、まかりこしました。」
博雅のよく透る声が響く。
―願いとな
―誰そ
―名を申せ
「名は・・・」
博雅は唾を呑み込んだ。とにかく、こちらから名乗ってはならぬ、晴明の名も口にしてはならぬ、名を呼ばれてもいらえてはならぬ、というのも、保憲に再三釘をさされていたところである。
「名乗るほどの者ではございませぬ。ただ、こちらに、わたくしの友である男が囚われておる、と聞き、是非とも返して頂きたく、こうしてまかりこしたのでございます。」
―友、とな
―友とは誰そ
「大いなる力を持つ者、と言えばおわかり頂けましょう。」
―ふん
―わかったぞ
―あの者か
―あの者は渡せぬ
―あの者は、我らにとって、是非とも必要なのじゃ
なおも申し立てをしようと、博雅が口を開いた時、若い男の声がはっきりと叫んだ。
―こやつ、山部(桓武天皇)の血筋の者ぞ。
続いて老女の声が、
―おお、まさしく。にっくき山部の血を継ぐ者じゃ。
次いで別の男の声が、
―我らより全てを奪ったあの男の血筋の者とな。
―そんな者の願いを聞くわけにはゆかぬ。
―願いなぞ聞かぬ。
―去ね。
―疾く去ね。
―去ねば殺すぞ。
―雷で打つぞ。
聞いていられないほどの騒々しい声で、口々にがなりたてる。
博雅は膝をつき、両手を前についた。その声は、怨霊どもの立てる騒音を貫いて響き渡った。
「我が祖先があなたがたに為した仕打ち、我が一身を以って償えるのなら償いましょう。あなたがたの苦しみ、悲しみ、怒り、無念は察するに余りあること、このわたくしにもよくわかります。」
両腕を見えぬ相手に向かってさしのべた。
「しかし、ならばこそ、おわかりになるはず。大切な者、愛おしいと思う者を失う辛さがいかなるものであるのか」
声はわめき立てるのをやめた。その静けさの中に、博雅の声が凛として響く。
「かえがえのない友を奪われる、このわたくしの苦しみをおわかり頂けるはず。どうか、どうか・・・」
その後の言葉はぐっと飲み込んで、胸の中でつぶやいた。
「どうか、わたくしから晴明を奪わないで下さい―」
静寂がなおも続く。博雅はひたすら待った。
ややあって、声がした。
―よかろう
―ひとつ条件をやろう
―その者はわが結界の中で眠りについておる
―ここに箏がある
―ただの箏ではないぞ
―大いなる呪力を持った箏じゃ
―ぬしにこの箏が弾ければ、ぬしが友を目覚めさせてやろう
「箏?」
拝殿の扉が開いた。中はぼんやりと明るい。
近寄って見ると、拝殿の中央に箏が置かれていた。
「これを弾けば、わたくしの友を返して頂けるのか?」
―返すとは言わぬ
―目覚めさせるだけじゃ
―目覚めてぬしについゆくかはわからぬぞ
とにかく、言われた通りにするよりなさそうであった。
博雅は、拝殿に上がり、箏の前に端然と座した。爪をつけ、弦の上に指を置く。
―弾けるかの
―弾けるはずがなかろう
―ただの人の身に弾けるものではないわ
―音が一つでも出せれば大したものじゃ
嘲笑う声が響いた。
しかし、もはやそれは博雅の耳には届いていなかった。その指がしなやかに動き出すと、えも言われぬ美しい響きが社を包む闇の中に滑り出した。
箏の音は、爽やかな祝祭の楽の調べを奏で、辺りを満たしてゆく。闇を祓い、悲しみを癒し、憎しみを鎮め、苦悩を洗い流す、そんな音色であった。
突然、世にも恐ろしいうめき声が、箏の音をかき消した。
―おおお
―何としたこと
―我が結界が
―我が結界が崩れる
―おのれ
ガッシャーン
耳障りな音がして、13本の箏の弦が全て切れて弾け飛んだ。
「痛っ!」
博雅は、指をきつく弾かれて、思わず手を引っ込めた。その瞬間、
バリバリッ
箏が真っ二つに裂けた。
はっとして博雅が見上げると、拝殿の天井があるべきところに、真っ黒い雲が渦巻いている。
―よくも・・・よくも我が結界を破りおったな!
―小癪な!
―死ね!
雲の渦巻きの中心が2、3度光を発したかと思うと、青白い稲妻が博雅目がけて放たれた。
「うわっ!」
博雅は思わず頭を抱えて、その場に伏せた。
バシッ
激しい衝突音が響き渡った。
が、博雅の身には何の衝撃も来ない。
そっと頭を上げると。
目の前に、こちらに背を向けて白い狩衣姿の男が立っていた。
両手で呪符を前にかざし、一心に呪を唱えている。
稲妻は呪符によって遮られ、生き物のようにもがいていた。
狩衣の袂や裾が、大風に煽られているかのように、ぱたぱたとはためく。
博雅はふりしぼるような声で、その男の名を呼んだ。
「晴明!」
・・・すみません、ベタですね・・・。