「道満!」

                  保憲の咎めるような視線に、道満はけろりとして言った。

                  「わしが呼んだのじゃ。戸板の陰に隠れて待っておれば、誰かが晴明のことを聞かせに来る、と言うてな。」

                  「余計なことを・・・」

                  保憲は苦虫をかみつぶしたような顔になる。

                  「保憲どの、わたしに晴明が救えるというのは、まことなのですか?」

                  博雅の顔は必死だ。昼間宮中に参内した時の衣冠姿のままである。澄んだ瞳にまっすぐ見据えられて、保憲は観念した。

「博雅さま、これからあなたにお願いせねばならぬことは大層危ないことなのです。あなたも陰態にお入りになったことがあると聞きましたから、おわかりでしょうが、生身の人間が何の護りもせずに入ってゆけば、たちどころに鬼どもに喰われてしまうでしょう。」

                  博雅は唾を呑み込んだ。以前、晴明と共に陰態の応天門を訪れた時のことを思い出した。あの時は晴明がいたが−。

「こたびは博雅さまお一人で行って頂かねばなりませぬ。鬼門から裏鬼門へと通り抜ける道を開いて陰態に入るのですが、その道には鬼の気配で満ちております。人一人の気配ならば強力な護符で消せましょうが、二人もの人の気配では、鬼どもに感づかれてしまいます。」

                  「では」

                  「道満」

                  保憲に促されて、道満は渋々袂から何か取り出し、保憲に手渡した。

                  「これです。」

                  博雅に示した手のひらの上には、薄い翠色をした玉が載っていた。

                  「これは、見事な・・・」

                  「崑崙の玉です。」

                  保憲はそれを博雅に手渡した。

「これはただ珍しき玉、というだけでなく、あの早良の皇子の怨霊を鎮めるために並外れて強力な呪がかけられております。これを身につけておれば、陰態にあっても何とか鬼どもの目をくらますことができましょう。」

                  「ほう」

                  博雅はしげしげと眺めた。平たい円形で、中央に穴があいており、穴の周囲を龍の彫刻が取り巻いている。

                  保憲は心を決めかねるように博雅を見ていたが、

                  「しかし、中には勘の鋭い鬼もあるやもしれませぬ。やはり、博雅さまお一人では危なすぎましょう。」

                  「いや」

                  博雅は顔を上げ、きっぱりと言った。

                  「わたしが参ります。必ずや晴明を連れ戻して参りましょう。」

                  保憲は困惑の色を隠せなかったが、やむなくうなずいた。

                  「それで、御霊社にたどり着いたら、どうすればよいのでしょう?」

                  博雅が訊ねると、保憲は真顔で、

                  「誠心誠意、頼むのです。我が友を返してくれ、と」

                  「・・・。」

                  何か術を授かることを予想していた博雅は、思わず言葉を失った。

                  「・・・応じてくれましょうか」

                  「応じませぬでしょうなあ」

                  「では・・・」

                  しかし、保憲は真剣だった。

                  「聞かせるのは御霊たちにではない、晴明に聞かせるのですよ。」

                  「晴明に?」

               「晴明はおそらく御霊たちによって封印されておると思われまする。その封印を解くには、晴明自身の力を以ってするのが一番確実でしょう。」

                  「晴明自身の力・・・」

                  保憲はうなずいた。

  「晴明が誰よりも大切に思うておるお方の声を聞かせ、会いたいという気持ちを伝えることによって、晴明自身の封印から解き放たれたい、という想いを動かすのですよ。」

                  そして、博雅をじっと見つめた。

                  「あなたしかいない、というのはそういう意味なのですよ。」

                  博雅は、その言葉の重みを噛み締めるように沈思した。それから、

                  「わたしに晴明が救えましょうか。」

                  「あなたならお出来になります。」

                  保憲は優しく言った

                         *         *         *

内裏の坤(ひつじさる)の方角にある木島の社(※1)は、都がこの地へ移る前よりあったと言われる古い社である。この地を支配していた渡来系の秦氏による建立であった。境内の元糺の池には、三本足の鳥居がぽつねんと立っている。

                  その池のかたわらに、保憲は博雅と向かい合って立っていた。

                  博雅の目を閉じさせ、額に指をかざし、呪を唱える。護符である崑崙の玉は、丈夫な紐が結び付けられ、博雅の帯から吊るされている。

                  呪を唱えるにつれ、博雅の姿は徐々に薄くなり、やがてふっと見えなくなった。

                  「行ってしまわれた。」

                  「首尾よくゆくとよいがの。」

                  道満は面白そうににやにやしている。

                  「無事に戻られるとよいが」

                  保憲は不安の色を隠しきれぬ様子で、肩の上の猫又の背をしきりに撫でていたが、

                  「道満」

                  「何じゃ」

                  「あの方−博雅さまは、やはり天に選ばれたお方なのかな。」

                  「楽の才のことを言うておるのであれば、あれはまさにそうであろうよ。」

                  道満の口ぶりはそっけない。

                  「楽の才ももちろんなのだが」

                  保憲はそこで言葉を切った。そして、ひどくしみじみとした口ぶりになって、

                  「おれはな、できれば博雅さまを今度のことには巻き込みたくなかったのだよ。」

                  「ぬしらしくもない言い様じゃ。」

                  道満は批判がましく言った。

                  「そうか?」

                  保憲は少し笑った。

「あの曇りのないお人柄、宮中にたむろす欲にまみれた権勢の亡者どもの群れの中にあっても、決して染まられず、望月のように澄んだお心映えを持ち続けておいでだ。

                 これは並のお人とは言えぬ。」

                  黙って聞いている道満の顔にはもはやにやにや笑いは浮かんでいなかった。

                  「晴明が博雅さまとめぐり逢うたのは、天の配剤だとおれは思うのだよ。」

                  保憲はそう言って、老人を見やった。

                  「ぬしはそう思わぬか。」

                  老人は肩をすくめてすぐには答えなかった。が、ややあってぽつりと言った。

                  「あのお方の光は、わしのような者にはまぶし過ぎるのじゃよ。」

                                                   

                     続く


※1 木島社・・・正式には木島坐天照御魂神社。秦氏は養蚕と織機を伝えたことで知られ、境内にある養蚕神社にちなんで「蚕の社」と現在では通称されています。小さな神社ですが、コミックの「桃薗の柱の穴より児の手の人を招くこと」でも、ちょっとだけ触れられていましたが、秦氏にとっては呪術的にかなり重要な意味合いを持つ社であったようです。

内裏の裏鬼門ということで、最初は松尾大社にしようかと思っていたんですが、京都の地図を眺めていたら、この蚕の社が内裏をはさんで、上御霊神社とほぼ対称の位置にあることを発見し、こちらに決めました。京福電鉄の嵐山線に「蚕の社」という駅があり、これが最寄り駅になっています。

           

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