そんなことがあってから、何日かが過ぎた。
その日、博雅は帝よりのお召しを受け、皇后安子のために楽を奏するべく、後宮に参上していた。
皇后の所望で箏をひとしきり奏でると、傍らの簾の向こう側で、女房たちが次々と感に堪えぬ、というため息をもらした。
「ほんに、中将さまのお箏は素晴らしいですわね。」
「心が洗われるようですわ。」
「博雅の中将さまと言えば、何と言ってもお笛ですけど、お箏もまた格別。」
皇后も正面の御簾の奥から声をかけた。
「よい琴でした、中将どの。」
「勿体のうございます。」
博雅は両手をついて丁寧に頭を下げた。
「このような拙い技で皇后さまのお心が慰みますのなら。」
「このところ、鴨川の水が突然あふれたかと思えば、都の北の方でよくない病が流行りだしたとか、
陰陽寮の卜占でも凶ばかり出るとかで、何かと心ふさぐことばかり。春宮の病も一向によくなりませぬ。
帝のお心遣いで博雅どのの楽を聴くことができ、ほんに気が晴れました。」
「そう言えば」
女房の一人が声を発した。
「陰陽寮の安倍晴明さまがしばらく前より行方知れずとか。」
すると、他の女房たちも次々と言い出した。姿の美しい晴明は、宮中の女たちの関心の的なのだ。
「なんでも、土御門のお屋敷から煙の如く消えてしまわれたとか。」
「確か、鴨川の水があふれる二日ほど前のことであったとききましたわよ。」
「これもまた悪い徴ではないかと言う者もございますわ。」
「帝もこのような時に誰よりも頼りにしておられる晴明さまがご不在で、それはそれは心細がっていらっしゃるとか。」
年かさの女房が見かねて口をはさんだ。
「あなたがた、中将さまの御前ですよ。」
「あっ」
若い女房たちは恥じ入って口をつぐんだ。
うつむいてしまった博雅の様子を案じた皇后が声をかけた。
「中将どのは晴明どのとは仲のよいお友だちと伺っています。さぞやご心配でしょう?」
「は」
博雅は恐縮して頭を下げた。
「なれど、あの晴明どののことでございます。何ぞ、考えがあってのことでございましょう。案ずるほどのことでもないのやもしれませぬ。」
事もなげに言ったが、つとめて平静を装っているようなのは、傍から見ても明らかであった。
皇后の御前を退出してからも、博雅は浮かぬ顔のままであった。
―これもまた悪い徴ではないかと
それだけなら、まだよい。この度の災厄は全て妖物たる本性を明らかにした安倍晴明の仕業ぞ、とまことしとやかに語る輩もいるのだ。
博雅自身、心当たりの所に自ら足を運んだり、使いを出したりしたが、晴明の消息はまるでつかめない。何とも気の晴れぬ日が続いていた。
ふと、庭先から声をかける者があった。
「これ、博雅」
覚えのある声である。博雅は少し嫌な顔をして、声の主を見た。
「蘆屋道満どの」
そこに周囲の景色とは余りに不釣合いな、みすぼらしいさまの老人が立っていた。
「どうやって内裏の中に・・・」
「なあに、たやすいことじゃ。」
道満はにやにや笑った。そのにやにや笑いのまま、博雅に近づいた。
「おぬし、晴明のことを救い出したくはないか?」
「何!?」
博雅は思わず大きな声を出した。
「おっと」
道満はおどけた顔でおのれの唇に指をあてた。
「わしの姿が誰ぞに見られたら、即座に消えねばならぬからの。」
博雅はささやくような小声で、しかし叫ぶような口調で詰問した。
「晴明を救い出すとはどういうことだ?晴明の身に何かよくないことが起こっておるとでも言うのか?」
「それを聞きたくば」
道満は秘密めかして、
「酉の刻(午後6時頃)に西ノ京に来るがよい。朱雀門のところにわしの式がおいておくから、案内してもらえ。」
「西ノ京?」
博雅はけげんそうに問い返した。
「わしの用はそれだけじゃ。じゃあな。」
言うなり、道満はくるりと背を向け、
「お、おい!」
博雅の呼び止める声にも構わず、何処へともなく姿を消してしまった。
「・・・晴明」
足元を灰色の萱鼠が一匹駆け抜けていったのにも気づかず、博雅はしばしその場に立ち尽くした。
やがて意を決したかのように、決然とした足取りで歩き出した。