御霊
晴明は、ふとどこからともなく流れ込んできた箏の音で目覚めた。
半身を起こして、じいっと耳をすます。
―はて
このような夜更けに。誰が琴など奏でているのであろうか。
狩衣を身につけ、簀子に出た。
夜風が心地よく頬を撫でる。
中空に臥待月がたよりなげに浮かんでいる。
箏の音は、屋敷の北の方角から流れてくるようであった。
―不思議な音色だ。
いずれの名手か、あるいは名器なのか。聴いたことのない、それでいてひどく心を魅かれる音色であった。
―今度、博雅に聞いてみよう。
そんなことを思いながら、晴明は我知らず屋敷を出て、箏の音の聴こえる方へ足を向けていた。
どれくらい歩いたであろうか。
行く手に黒々とした森を目にして、晴明は足を止めた。箏の音はその森の奥から聴こえてくる。
―ここは、御霊社(※1)ではないか。
かつて、桓武天皇が、この地に都を遷した際、長岡京を滅ぼした早良親王の霊を慰めるために建てた社である。
その際、謀反の罪を着せられて死に追いやられた、光仁天皇の皇后、井上内親王とその子他戸親王も合わせ祭られた。(※2)
以後、都では、はやり病や災害など、災厄があるたびに、代々の帝の世に恨みを抱いて死んだ者の怨霊を御霊としてここに祭ってきたのである。内裏の艮(うしとら)の方にあたり、平安京に複雑にはり巡らされた王都守護の呪術的な仕掛けの一つであった。
晴明の目には、箏の音の響いてくる社の森の奥から、沸き立つような黒い影がはっきりと見てとれた。
―ふん
紅い唇が不敵な笑みを浮かべたかのように見えた。
―おれを呼んでいるというのか?
内心での問いかけに答えるように、森の木々がざんざとざわめき、箏の音が激しく乱れた調子に変わる。
―いいだろう。
晴明は足を踏み出した。
―この晴明を、いかにするつもりであるか、見てやろうではないか。
森の奥へと歩を進めていった。
まもなく拝殿が見えてきた。
扉が開け放たれ、中がぼおっと明るい。
近寄って見ると、拝殿の中央で、一人の人物が箏を奏でていた。
それは、若い男のようでもあり、老女のようでもあり、壮年の男のようでもあり。
箏の弾き手は、晴明を見た。
箏を奏でる手は止めない。
「来おったか。」
女―あるいは男は、にたりと笑った。
「よう来た」
「計り知れぬ力を持つ者よ」
「ぬしの力が入り用じゃ」
「こちらへ来や」
「来や」
話しているのは一人だが、何人もの声が口々に話しているかのようだ。
若者―あるいは老人は、誘うような調べで箏をかき鳴らす。目はひたと晴明に向けられている。
―深入りしすぎたか?
晴明は、己れのらしからぬ軽はずみに舌打ちした。
今になって気づいたが、この箏の音そのものが結界を形作っているのであり、聴かせたいと思う者だけに聴かせ、その者を結界の中に取り込んでしまう仕掛けなのである。
今、背を向けてこの場を去ろうとしても、晴明の足は一歩たりとも進まないであろう。
その呪縛を、己が身にはっきりと感じた。
―どうする?
晴明は腕を組んで、考えをめぐらせようとした。
その瞬間。
ごおっと音がして、箏の弾き手の体から真っ黒な闇が噴き出した。
「―!」
思わず身をかがめた晴明に襲いかかり、包み込んでしまう。
ごおおおおおお
社の森の木々が激しく揺れて、音を響かせた。
かと思うと、ぱったりと風が止み、森はしんとした静寂に包まれた。
拝殿は暗く闇に沈み、その場には何者の姿もなかった。
註
※1 御霊社・・・現在は上御霊神社と下御霊神社がありますが、この当時から社があったのは上御霊社の方。地下鉄烏丸線の鞍馬口駅からすぐです。地下鉄で一駅ですので、晴明邸のあったブライトン・ホテル界隈からも十分歩いていけると思います。
※2 光仁天皇、井上内親王、他戸親王・・・光仁天皇は桓武天皇の父。その皇后井上内親王が産んだ他戸親王が最初は東宮だったところを、母井上皇后が天皇を呪詛した、という疑いをかけられたため、二人は監禁され、次々と死んでしまい、代わって後の桓武天皇が東宮になった、というわけです。二人の失脚と死は、桓武天皇の陰謀だったとも言われてます。早良といい、よく人の恨みを買っている人やね。