博雅を捕えた影の男は、そのまま博雅の頭を掴んで、自分の体に押し付けた。

まるで、己の内に取り込もうとしているかのようであった。

実忠たちも、巨大な影の鬼に太刀を奪われ、足で踏み付けられたり、体を掴まれたりしている。

―ここまでか…

影の体に顔がめり込むようになって、まるで息が出来なくなった博雅が思った瞬間、ふと体を締め付けていた力が緩んだ。

はっとして顔を上げると、男の額に青白く光る短刀が突き刺さっていた。

振り返ると、少し離れたところに、すらりとした人影が立っている。

「今のうちに逃れられよ、博雅どの」

凛とした童の声に、聞き覚えがあった。

素早く体を引いて、男から逃れた博雅は、その名を呼んだ。

「朱呑童子どの」

山吹色の水干を纏った美童の姿をした朱呑が、にやりと笑う。

影の男は、額の短刀を引き抜くと、また博雅に襲い掛かろうとした。

が、すぐにその動きは止まった。

他の二体の影の鬼も、実忠たちに喰らいつこうとしたまま、ぴたりと動きを止めている。

その額には、呪符が貼り付いていた。

「博雅!」

見ると、晴明がこちらへ駆け寄ってきていた。その背後には松明を手にした保憲の姿もある。

朱呑はいつのまにか姿を消していた。

「晴明…!どうして…」

晴明は、博雅を襲った影の額に貼り付けた呪符に、右の人差し指と中指を揃えて当て、小さく呪を唱えた。

すると、影はぽんと煙の如く消え失せた。

「怪我はないか、博雅」

晴明が労わると、博雅は、

「大丈夫だ」

と頷いて、きょろきょろと辺りを見回した。

 晴明は安堵の息をつくと、実忠たちを捕えている鬼の片方へ歩み寄り、同じ様に額の呪符に指を当てて、呪を唱えた。

保憲がもう一方の鬼の方へ行って、同じことをしている。

二体の鬼は一瞬のうちに消え失せて、実忠たちを自由にした。

その時、博雅は足元に、木の人形(ひとがた)が落ちているのに気づいた。

頭の部分に呪符が貼り付けてある。

「迂闊に触るなよ、博雅」

晴明が声をかけた。その手には、同じように呪符を貼った人形が握られている。博雅に歩み寄り、その足元から人形を拾い上げた。

「それは一体何なのだ」

博雅が問うと、

「これがあの影の正体さ」

晴明は答えた。

「これが」

博雅はいぶかしんだ。

「いやいや、大変な目にお遭いになりましたなあ」

飄々とした様子で歩み寄ってくる保憲も、同じような人形を手にしている。

「これは、延喜の帝の御世に、神泉苑で競べ馬が行われた折、誰かが競争相手を呪詛するために、陰陽師に命じて、苑の丑寅の隅に埋められたものだ」

二条大宮の辻の、未申の方角は神泉苑である。

「何故判る」

「ここに書いてあるからさ」

晴明は、人形を裏返して見せた。保憲の掲げた松明の火の下で、うっすらと墨の字で何事か記してあるのが見える。

「…なるほど」

「そのまま何の手当てもせずに放っておいたので、よくない力を溜め込んで、あのような悪事をなすようになったのであろう」

「人の血肉を欲していたようだが…」

「さすれば、己も真の人になれるとでも思うたのかもしれんな」

晴明は、保憲から三つ目の人形を受け取ると、懐に仕舞った。

「それをどうするのだ」

「叡山の良源上人のもとにお持ちして、念入りに祓えを行った上で、焼き捨てて頂くのさ」

「ふうん」

博雅は頷いてから、はっとして問うた。

「ところで、晴明、何故ここへ…。主上のお許しが出たのか?」

「まあ、そんなところだ」

晴明は苦笑した。

「あの男の耳に、おれが極悪人だと毎晩のように吹き込んでいた女人が、今夜に限って違うことを言い出したのだそうだ」

―晴明は罪人ではない

―晴明を一刻も早く解き放て

寝入りばなにその夢を見て、すぐに目を覚ました帝は、夢の女人の只ならぬ様子に胸騒ぎを覚え、すぐさま賀茂家に使いを出した。

「丁度その頃、おれの夢にもその女人が現れたのさ」

「おまえの夢にも?」

博雅は目を丸くした。

「うむ」

「何と言うたのだ」

―二条大宮の辻で、博雅さまが危難に遭うておられる。すぐに救うて差し上げて給れ

驚いて目を覚ましたところへ、帝の使いが来たので、取るものもとりあえず、保憲と共に二条大宮へ駆けつけたのであった。

「まあ、間に合うてよかった」

保憲はのんびりした口調で言った。

「一体その女人は何者なのだ。おまえを大罪人だと言うたり、罪人ではないと言うたり…」

博雅が腹立たしそうに言うと、晴明は、

「まあ、大体見当はついておる」

とさらりと言うので、

「何者なのだ?」

博雅は身を乗り出した。

「それは明日参内して確かめる。今夜のところは引き揚げよう」

晴明は土御門の屋敷に戻ることを許されたので、博雅と共に土御門へ。

実忠たちは博雅に十分にねぎらいを受けてから、主の屋敷へ、保憲は自分の屋敷へ、とそれぞれ散っていった。



続く


てとらさまが看破されましたが、元ネタは、『続古事談』。

源高明が二条大宮の辻で名を呼ばれる怪異に遭ってまもなく、元和の変が起きて失脚した、という逸話です。

実体化して人を食おうとしたという話はありません。(笑笑)



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