数日後、宮中に参内した博雅は、思いがけぬ噂を聞かされて仰天した。
―二条大宮の辻に出没する影のような鬼は、安倍晴明の仕業だそうな
―晴明は、その鬼に道行く人の血肉を啜らせ、恐ろしい化け物を作ろうとしておるそうな
―そうして、世を騒がさんと企んでおるそうな
そうして、宮中の風聞を裏付けるように、晴明が陰陽寮での任を解かれ、土御門の屋敷からも退出させられて、その身柄は当分の間賀茂家に預けよとの宣旨が下ったのである。
「そんなばかなことがあるか!」
博雅は、場所柄も構わず大声を上げ、すぐ帝の御座所へ向かった。
帝は、朝の政務を終えて、奥の御帳台に入っていたが、博雅が謁見を乞うと、すぐに昼御座(ひるのおまし)に出てきた。
「如何した、博雅…」
「主上」
博雅は、端然と居住まいを正し、
「安倍晴明どのが、鬼を操って世に害を為さんとしておるなどとは、根も葉もない風聞に過ぎませぬ。どうか、処分のお取り消しをお願いしたく、まかりこしました」
すると、控えていた参議の一人が、これを嗜めるように、
「これ、中将どの」
と声をかけた。
「晴明どのの賀茂家お預けをお決めになったは、主上御自身のお考えなのですぞ。根も葉もない風聞を真に受けてのことではござらぬ」
「そうなのだ、博雅」
御簾の向こうで、帝が困りきった声で言った。
「余とて、晴明ほどの男が、あのような、質の悪い戯れ事のような企みを為すとは到底思えぬ」
「では…」
言い募ろうとした博雅は、帝が唐突に、
「余は夢を見るのだ」
と言い出したので、虚を衝かれた。
「夢…でございますか」
「うむ」
帝は頷いた。
その語るところによると、相撲人の三宅時弘が、二条大宮の辻で鬼に咬まれたその前夜から、毎晩のように、帝の枕元に一人の女人が立つのだ、と言う。
唐風の衣を纏い、唐風に髪を結った、いかにも高貴な有様の女人で、よく澄んだ、それは美しい声でこんなことを言うのである。
―二条大宮の辻に、奇怪な鬼を立たせ、人を脅すは安倍晴明の仕業ぞ
―鬼は、やがて道行く人を捕らえ、血を啜り、肉を喰らうようになるであろう
―そうして、恐ろしい化け物となり、世を騒がすであろう
―晴明を捕えよ
―晴明は大逆の罪を犯す大罪人ぞ
―晴明を捕えよ
最初は帝も、
―つまらぬ夢を見た
としか思わなかったのだが、翌日、相撲人が鬼に齧られたという知らせが入り、
―夢が告げたのは真であったか
と疑いを持つうちに、またその夜も件の女人が枕元に立ち、
―晴明を捕えよ
―晴明は大罪人ぞと
と、囁く。
それが幾夜も続いたので、遂に、帝は夢に従う決心をしたのである。
とは言え、帝も確信があるわけではないので、とりあえず晴明の任を解き、身柄を加茂家に預けるとの措置を取ったのであった。
「晴明が、保憲の監視下にあるにも関らず、やはり鬼が変事を為したということになれば、晴明に科のない証が立とう。いま少し辛抱してくれ、博雅」
帝にこう言われては、博雅も謹んで引き下がるより外なかった。
内裏では、すっかり
「あの安倍晴明が、謀反を企んで捕えられた」
という話になってしまっていた。
晴明と親しい博雅も加担しているのでは、と思われているらしく、ごく親しい間柄の公達以外は、博雅を避けるようにしている。
何とも気持ちの収まらぬまま、博雅は、内裏より下がると、すぐその足で、賀茂家を訪ねた。
賀茂家では、保憲本人が応対してはくれたものの、
「博雅さまにご迷惑がかかる故、お会いせぬ方がよかろう、と晴明が申しますので…」
と、気の毒そうに言われ、晴明を会うことは出来なかった。
仕方なく自邸に戻った博雅であったが、やはり、どうにも我慢がならぬ。
「よし、おれが二条大宮の鬼を捕えて、晴明の身の潔白を立ててやろう」
そう思い立つと、もう、居ても立ってもいられなくなった。
実忠ほか信頼のおける2、3人の家人を厳重に武装させ、自らも太刀を帯び、暗くなるのを待ち兼ねるようにして、牛車に乗り、二条大宮へ向かった。
二条大路を東へ進み、神泉苑の北門を過ぎると、二条大宮の辻である。
「殿!」
松明を持ち、徒歩で従っていた実忠が緊張した声で呼んだので、博雅は、前の御簾を掲げた。
冷泉院の築地塀の向こう側に三つの黒い影が立っている。
「あれか」
博雅はごくりと唾を飲み込み、
「そろそろと行け」
と指示した。
車が、築地塀の前に差し掛かると、
―ひろまさ
と不気味な声が呼ばわった。
―ひろまさ
博雅は腹の底からぞっとしたが、
―晴明の身の潔白を立てねば
と思うと、勇気を振り起こし、車を停めるように命じた。
―ひろまさ
そして、太刀を手に車から下り、深く息を吸ってから、塀の向こう側にぬうと立つ影に向かって問うた。
「そなたは何者ぞ」
影は答えない。
「何故おれの名を呼ぶ」
答えはなかった。
「何か用なのか」
すると、三つの影のうち、中央の影がふうと消えたかと思うと、博雅の目の前に、博雅より頭一つばかりの高さの男が立っていた。
影のように真っ黒であったが、体つきから見て、すらりとした美丈夫に見えた。
男は、やおら、博雅の両肩を掴むと、
―ぬしが血と肉が欲しい
と声を発した。
博雅は驚いて、男の手から逃れようとしたが、男は強い力で博雅を掴んでいて、まるで身動きがとれなかった。
腰の太刀にも手を触れることすら出来ない。
「殿!」
実忠たちは、松明を放り捨て、太刀を抜いて駆け寄ろうとした。
すると、両脇の影がみるみる膨れ上がって、筋肉の隆々とした巨体の鬼となり、築地塀を跨いで来て、これに立ちはだかる。
「実忠!」
博雅は何とか男の手を振り解こうとするが、いくらもがいても、男はぴくりとも動かなかった。
その顔は、やはり影のようで、目鼻立ちも表情もまるで判らなかったが、博雅には、その顔がにやりと笑ったかのように見えた。