影の鬼
春も晩い候、日のあるうちは、辺りは煌くような若葉に包まれるのであるが、日の暮れた今は、すっかり闇に沈んでいる。
しかし、萌え出でたばかりの新しい草葉の放つ、柔らかでふくよかな匂いは、確かに夜気を充たしていた。
土御門の晴明の屋敷。
いつものように、簀子の上で晴明と差し向かいで、ほろほろと酒を呑んでいた博雅が、ふと言い出した。
「先日、唐土の地より運ばれたという琵琶の名器が主上に献上されたのだよ」
「ほう」
「如何なる琵琶であろう、と気にかけておったら、一昨日の宮中の御遊の折りに、特別に奏でることをお許し頂いたのだ」
その琵琶は、腹板の部分に、螺鈿で、笛を奏でる飛天と、歌う迦陵頻迦が、瑞雲の文様と共に描かれていた。
「それは見事な音色でなあ。今にも、飛天が共に笛を奏で、迦陵頻迦が共に歌い始めるかと思うような音であった」
博雅は、ほうと吐息をついた。
「そうか」
晴明が相槌を打った。
博雅は口を閉ざし、今もかの琵琶の音が聴こえているかのような顔つきになった。
晴明は、何やら花か何かを愛でるような目つきで、博雅の姿を眺めている。
ややあって、
風が出てきたのか、わずかに灯火が揺れた。
簀子の上に投げられた影もかすかに揺れ動く。
それを見ていた博雅が、また口を開いた。
「なあ、晴明」
「何だ」
「おまえ、二条大宮の辻で、近頃起こる怪異の噂を聞いておるか」
「おお」
晴明は頷いた。
「おまえの伯父上も、少々怖い思いをなさったそうではないか」
「やはり聞いておったか」
「うむ」
「あれは一体何なのであろうなあ」
博雅は、先程までとは打って変わったように眉を顰めた。
怪異というのは、こうである。
ある晩、宮中を退出した大納言源高明が、牛車で二条大宮の辻に差し掛かったところ、牛車に従っていた随身や舎人がざわざわと騒ぎ出した。
「如何した」
と、高明が、車の前の簾を掲げると、
「あれを…」
舎人が、辻の丑寅の隅を指差した。
見ると、冷泉院の未申の角の築地塀の内側に、何か、丈高い者が三人立っているようである。
影のように黒く、胸が丁度築地塀の覆いに当たるほどの丈の高さに見えた。
高明の一行は、先導の者が魔よけのために、先触れの声をかけていたのだが、その声が聞こえる時は、うつ伏したように見えなくなり、声が止むと、またぬうと姿を覗かせる。
高明は気味悪く思ったが、
「先触れの声がしておる間は、姿を見せぬ故、先触れを続けてなさしめ、その間に疾く通り過ぎよ」
と命じた。
先触れの声が切れ目なくかけられるうちに、一行が築地塀の前を通り過ぎ途端、
―たかあきら
と、塀の内から高明を呼ぶ声がした。
地の底から響くかと思うような低い声である。
続けて、
―たかあきら
―たかあきら
と、合わせて三度呼んだ。
高明は全身に冷や水を浴びせかけられたようにぞおっとし、舎人たちも仰天して、牛を急き立て、飛ぶようにしてその場を逃げ去った。
この辻で怪異に遭ったのは、高明ばかりではなかった。
その晩以来、夜半を過ぎてから伴を連れて牛車に乗り、明々と松明を掲げて二条大宮に差し掛かると、必ず冷泉院の築地塀の内に三つの丈高い人影が見えるようになった。
先触れの声がすると、塀の内に見えなくなるので、先触れの声を頻りにかけながら通り過ぎると、気味の悪い声で、牛車の主の名を、三度呼ぶのであった。
少人数の者が徒歩で、小さな灯りを持って通る折には、そうした怪異には遭わぬので、
「松明の灯りに映った何かの影が、ちょっとした具合でそのように見えるのだ、声が聞こえるのも怖いと思う心のせいであろう、という者もあったのだが」
博雅が言うと、晴明は頷いた。
「相撲人が鬼に喰われかけたそうだな」
「もう知っておるのか」
博雅が感心した。
つい昨夜のことである。
怪異の噂を聞いた相撲人の三宅時弘という男が、
「このおれならば、その影の首根っこを捕まえて、塀の外に引っ張り出し、くたくたに折り畳んでやるわ」
と、豪語した。
時弘は、若いが大力の相撲人で、いずれは最手になるであろう、と噂される男である。
「それは面白い」
「是非やろう」
と、仲間内で大いに盛り上がり、一人二人が徒歩で出かけても現れぬというので、時弘が牛車に乗り、仲間の相撲人たちに松明を持たせ、ぞろぞろと引き連れて、暗くなってから、件の辻へ出かけたのであった。
すると、案の定、冷泉院の築地塀の上から、丈高い影のようなものが三つ覗いている。
相撲人たちは、先触れの声もかけずにずんずんと近づいてゆくので、影は姿を隠さず、ずっと一行を窺っているように見えた。
そして、一行が辻の角に差し掛かった時、やはり低い声で、
―ときひろ
―ときひろ
―ときひろ
と、三度呼んだ。
それを合図に、牛車が止まった。
時弘は、車の後ろの御簾を跳ね除けて、外へ飛び出した。
「おれを呼んだかあ」
大音声で呼ばわり、塀に向かって仁王立ちになった。
すると、
それまで、紙か何かのようにぺらりとして見えた三つの影が、むくむくと起き上がるように実体化した。
相変わらず真っ黒であったが、いずれも筋肉の隆々とした手足を持ち、カアと開いた口には、白々と光る牙と、赤くうねる舌が見えた。
一跨ぎで塀を越え、相撲人たちの前に立ちはだかった。
「むむ」
時弘は、僅かに怯んだ様子を見せたが、すぐに中央の鬼に向かって突進した。
と、鬼は恐ろしい声で叫んだ。
―ぬしが血を寄越せ、肉を寄越せ
そして、時弘の両肩をがしりと掴むと、軽々とと持ち上げた。
「うわああああ」
目の前に鬼のカアと開いた口を見て、時弘は肝を潰した。
何とか逃れようと、手足をばたばたさせる。
仲間の相撲人たちは、恐ろしさの余り身が竦み、呆然と眺めているばかりであった。
鬼は、そのままがぶりと時弘に喰らいついた。
頭を喰いちぎらんとしたようであったが、時弘が死に物狂いで暴れたので、鬼の牙が逸れ、右の肩に深々と突き刺さった。
「ぐわああああ」
血が飛び散って、それが鬼の眼に入ったかどうかしたらしい。鬼は噛み付いた牙を離して、無闇に頭を振った。
時弘も苦痛の余り、更に激しくもがいたので、鬼の手が緩み、時弘の体はどうと地面に転がった。
そこで、仲間の相撲人たちも気を奮い立たせ、太刀を抜いて振り回し、大声で喚きながら、時弘に駆け寄った。
半分死んだようになっている時弘の体を担いで、一目散にその場を逃げ去った。
「時弘どのは、どうにか命は助かったそうだが、傷が深くて、当分は寝たきりだそうだ」
博雅は気の毒そうに言った。
「一体その鬼は何なのであろうな」
「うむ」
晴明は考え深そうな目つきで頷いた。
「そのうち、おまえのところに何とかせよ、との仰せが来るのではないか」
博雅が言うと、
「かも知れぬな」
晴明は微笑した。
てとらさまより頂いたリクエストにお答えしました。(ネタバレになるので、リクの中身は秘密です)
でもって、連載です。てとらさま、完結まで気を長〜くしてお待ち下さいませ。