子犬の婿入り

 庭の八重桜の花は、満開であった。

 降り注ぐ春の光に競い合うかのように、枝いっぱいの花々が咲き誇っている。

 しかし、いつもならば、うっとりとこれを眺めているはずの博雅は、この日は何やら浮かぬ顔で溜息ばかりついていた。

 傍らでは、晴明が柱に背を預け、片膝を立てたいつもの姿勢で、何やら可笑しくて堪らぬ、といった顔をしている。

「どうにかならぬものかなあ、晴明よ」

「どうにか、と言うて、おまえはどうしたいのだ、博雅」

 晴明は、明らかに笑いを含んだ声で問うた。が、博雅にはそれを咎める余裕もないようであった。

「むう…」

 言葉に詰まって黙り込んでしまう。

「そもそも、お前がよくないぞ」

「…」

「幼い者には、幾ら泣いても駄々をこねても、叶わぬことは叶わぬ、ときちんと教えてやらねばならぬ。それが、本人のためでもある」

「…うむ」

「可哀想だからと言うて、何でも望みを叶えてやっていたら、一体その童はどのような大人になってしまうと思う?」

「…むう」

「まあ、おまえが本気でかのちい姫の婿になる、というのなら話は別だがな」

「ばかなことを言うな」

 博雅は思わず大きな声を出した。

「ちい姫は、まだ四つだぞ。真に夫婦になどなれるわけがなかろう」

「ならば、どうするのだ。出来もせぬのに、姫さまの婿となって、共に美濃へ参りましょう、と言うてしまったのであろう?」

「余りに、姫が悲しげに泣くから、つい…」

 博雅は、またふうと吐息をついた。

「おれは一体どうすればよいのだ」



 そもそもの、ことのいきさつというのは、こうであった。

 しばらく前から、博雅の屋敷に、博雅の遠縁にあたる源氏の姫、香子(かおるこ)が、家族と共に滞在していた。

 香子の夫は、美濃の国司に任じられ、家族と共に赴任していたのだが、香子の母が病に臥したので、子どもたちを連れて、これを見舞うために上京したのであった。

 母の住む家は手狭であるということで、ここに程近い博雅の屋敷に宿を借りているのである。

 香子には、数えで七つになる男の子と、四つになる女の子がいたが、元来子ども好きな博雅が、喜んで相手をし、楽の手解きなどしてやると、二人ともすっかり博雅に懐いた。

 殊に下の姫が、

「博雅たまに、お婿になっていただくの」

などと言っては、博雅の衣の裾に纏わりついて離れなかった。

 そんなわけで、母の病も愛らしい孫たちの顔を見たせいか、快方に向かい、そろそろ美濃へ帰ろうか、ということになると、大変な騒ぎとなった。

 博雅と別れたくないと言って、兄はしくしく泣き続けるし、妹は大きく口を開け、身も世もないといった体で、わあわあ声を上げて泣きじゃくって、どうにも始末に負えなかったのである。

 それで、可哀想になった博雅が、姫を膝に抱き上げ、切り下げ髪の頭を撫でながら、

「よしよし、ならばこの博雅が姫の婿となり、共に美濃へ参りましょう」

と、つい言ってしまったのである。

 母の香子は、もちろん、とんでもないと真に受けなかったが、ちい姫は躍り上がって喜んだ。

 もうすっかり博雅と共に美濃へ行くつもりになってしまって、母親が何と言っても、まるで耳を貸さない。

 困り果てた博雅は、この日、晴明を訪れて、相談を持ちかけたのである。



「じゅんじゅんに言い聞かせて、諦めさせるのが上策ではないか」

 晴明は言った。

「そうして、姫に聞いてもらえるのなら、とうにやっておる」

「いや、やはり止めましょう」

などと、博雅が言おうとしただけで、姫は口をひん曲げてひっひっとべそをかき始めるのだ。

「相手が幼子では、説いて聞かせるというのも、難しかろうな」

 晴明は頷いた。そして、

「おれに一つ策(て)があるのだが」

と言った。

「何」

 博雅が藁にも縋らんばかりの顔になった。

「どのような策だ」

「まあ聞け」

 晴明は語り始めた。



 香子の一行が、美濃に発つ日が来た。

 一行の車の他に、いま一つ車が仕立てられ、実忠に付き添われた博雅が乗り込んだ。

「博雅たま、お宿についたら、一緒に遊びましょう」

 母に手を引かれ、女車に乗ろうとしていたちい姫が、小さな手を振ると、博雅はにっこり頷いたが、声は発しなかった。実忠はすぐに車を下りて来た。馬で従って行くのである。

 やがて、ごとりと車が動き出し、列をなして、屋敷の門を出て行った。

 一行は、やがて逢坂山を越えて、近江へ入った。

 一休みしようということで、三井寺の門前で車を停めると、女車を下りたちい姫は、すぐに博雅の車に走り寄った。

「博雅たま!」

 姫が、牛を軛から外した車の前まで行って、呼びかけると、車の内からは、思いがけない声がした。

―わん!

 傍にいた実忠が顔色を変えた。

「如何なされました、殿!」

 前の簾を巻き上げる。

 すると、車の内には、

―わん!

 褐色の毛の、むくむくした愛くるしい仔犬が一匹座っていたのであった。

 円らな目をぱっちり開いて、盛んに尻尾を振っている。

 博雅の姿は、どこにも見えない。

 実忠は驚いた声で、

「殿が犬の姿になってしまわれた!」

と叫んだので、ちい姫は、みるみるうちに泣きべそ顔になった。そして、

「如何したのです」

と、女車から顔を覗かせた香子に、

「博雅たまが、わんわんになってしまったの」

と言うなり、悲しそうな声を上げて泣き出した。

「まあ…」

 香子は、さも驚いたという顔をして、息を呑んだ。

 実忠は、車の内から仔犬を腕に抱いて連れ出すと、

「姫さま、そのようにお泣きになりますな。…私がこれより殿をお連れして都へ戻り、安倍晴明さまにご相談申し上げることに致します」

「まあ、あの有名な陰陽師の…」

 香子が声を上げた。

「博雅さまとは、大変にお親しいと聞いておりますわ」

「はい」

 実忠は頷いて、ちい姫の傍らに膝をついた。

「ですから、姫さまには安心して美濃へお向かい…」

 実忠が言い終えぬうちに、姫は声を張り上げた。

「姫もゆく!」

「これ」

 香子が叱った。

「いけませんよ、姫。姫は母と共にお父さまのところに帰るのです」

 だが、ちい姫はいやいやをして、実忠の腕の仔犬に両手を差し伸べた。

「姫が博雅たまを抱っこして、おんみょうじどののところにお連れするの!」

 すると、仔犬は実忠の腕からするりと抜け出し、とことこと歩いて行って、姫の足元にちょこんと座った。姫の顔を見上げて尻尾を振る。

「ほら、博雅たまも姫といたいって」

 ちい姫は得意そうに仔犬を背中から抱え上げた。

「まあ…」

 香子と実忠は、心底困ったというように、顔を見合わせたが、仕方がない。

 一行は再びぞろぞろと都へ引き返すことになった。

 仔犬は、ちい姫の膝の上で大人しく眠っている。

 姫は嬉しそうに仔犬の毛を撫でた。



続く


すうきさまより頂いたリクエスト、「子犬の嫁入り」にお答えしたもので、「婿入りでもよい」というお話でしたので、「婿入り」と改題させて頂きました。

ご了承下さいませ、すうきさま。

前後編にするほどの、大きな話ではないのですが、長くなってしまったので〜。

何だか、全く色気のない話なのですが、リク消化できてますでしょうか?