一行は、一旦博雅の屋敷に戻り、ちい姫と香子の乗った女車だけが騎馬の実忠に付き添われて、土御門の晴明の屋敷に向かった。
出迎えた蜜虫に、直ぐに晴明のいる奥に通される。
晴明は、至極真面目な顔で実忠の話を聞き、ちい姫の膝の上で眠っている仔犬を見た。
白い手を伸べて、仔犬の頭を撫でると、仔犬はぴくっと耳を動かしてから、ぱっちりと目を開けて頭を起こした。
そして、姫の膝からぽんと飛び降りた。
「あ…」
姫が思わず手を差し伸べたが、仔犬はそのまま晴明の膝に歩いていった。
晴明は仔犬を顔の辺りまで持ち上げて、しげしげと見詰めていたが、やがて、仔犬を膝の上に下ろし、真剣そのものの顔で口を開いた。
「どうやら、博雅さまは、都を離れるのが、真にはお辛かったのでしょうなあ」
「なぜ?」
姫が首を傾げた。
「都には、博雅さまのお身内やご友人が大勢おられます。…そういった方々と離れ離れになるのは、さぞお寂しいでしょう」
晴明は、姫の顔を覗き込んだ。
「姫さまも、父ぎみや母ぎみ、兄ぎみと別れてしまって、お一人になってしまうのは、お寂しくございませんか?」
「寂しい…」
姫はこくんと頷いた。
「博雅さまは、都を離れたお寂しさの余り、このように犬に姿を変えてしまわれたのです」
晴明は頭を撫でてやると、仔犬は心地よさそうに目を細めた。
ちい姫は、そんな仔犬の様子を悲しそうに見ていたが、やがて、小さな手をついて、きちんと頭を下げた。
「ごめんなたい、博雅たま。もう美濃へは行かなくてよいので、人の姿に戻ってくだちゃい」
姫の横で、香子が見るからに安堵の表情になる。だが、頭を上げた姫は、こんなことを言った。
「だから、姫が都に残って博雅たまと暮らします。それならよいでしょう?」
「おやおや」
しかし、晴明は落ち着いていた。
「姫が都に残ってしまわれたら、父ぎみも母ぎみも兄ぎみも、お寂しさの余り、何かのけものになってしまわれますぞ」
姫はびっくりして、傍らの母の顔を見た。困惑している香子の白い顔が、束の間兎の顔のように見えた。
途端に姫はわっと泣き出して、母の膝に縋った。
「いやいや、母さまがけものになってしまうなんて、いや」
香子は優しく姫の髪を撫でながら、
「よしよし、泣くのではありませんよ。母はけものなどにはなりませぬ。…姫が共に美濃へ帰るのでしたらね」
「帰る!母さまと一緒に父さまのところに帰る!」
姫は母の胸にひしと抱きついた。香子は姫を抱き、
「では、母と共に帰りましょう」
と言い、晴明に丁寧に頭を下げた。
―お陰で助かりましたわ。有難うございました。
ちい姫に気取られぬよう、口の動きだけでこう言った。
―博雅さまに、くれぐれもお礼とお詫びを…
―承知しております
晴明も礼を返し、声に出してはこう言った。
「博雅さまは、わたくしが必ず人の姿にお戻しします」
ちい姫は、涙でぐしゃぐしゃの顔を晴明に向け、こくんと頷いた。そして、仔犬の方へ向けて小さな手を差し伸べた。
「博雅たま、また遊びに来ましゅね」
女車が晴明の屋敷の門前から去ると、晴明は背後の御簾に声をかけた。
「もう行かれたぞ」
すると、御簾の向こう側に設えられた几帳の奥から博雅が姿を現した。御簾を掲げてこちらへ入ってくる。
「―何とかうまくいったようだな」
晴明と差し向かいに座ると、ほっと吐息をついた。
「ああ」
晴明は微笑して、膝の上の仔犬を抱き上げると、床の上に下した。仔犬はしばらく、とことことそこらを駆け回っていたが、そのうち、簀子に出て行って、そこで丸くなって昼寝を始めた。
博雅は、それを目で追いながら、
「それにしても、お前に呪をかけられていたとは言え、よく車の内で大人しくしていたなあ」
「人によく慣れて、大人しいのを特に選んで貰ってきたからな」
晴明は答えた。
「しかしなあ」
博雅は顔を曇らせた。
「小さい方を騙したようで、気が引ける」
「なあに、あの姫を成長すれば判るようになるさ」
晴明は言った。
「無闇に騙したのではない、人が親しいもの、住み慣れた地から引き離されるのが、どれほど辛く寂しいことかということを教えようとしたのだ、ということをな」
「だとよいが」
博雅は冴えぬ顔で溜息をついた。
「騙されたと知れば、おれのことをさぞ怨むだろうなあ」
「そんなことはないさ」
晴明は慰めた。
「おまえはよい漢だから、怨まれたりなぞせぬよ」
博雅は晴明を見遣った。
「…おまえによい漢と言われると、何やら馬鹿にされているような気がするぞ」
「馬鹿になぞしておらん」
晴明は苦笑した。
「何しろ、おまえが美濃になんぞ行ってしまうと、おれの方こそ寂しさの余りけものになってしまうかもしれんのだからな」
「おまえは最初から狐ではないか」
博雅は言い返した。
「だから、おまえのいない寂しさの余り、狐の正体を現して人に狩り出されてしまうやもしれぬぞ」
晴明は平気な顔で答えた。
「おまえがそのような失態をするわけがないではないか」
博雅が言うと、晴明は笑った。
「そうでもないさ」
そして、手を打って蜜虫を呼んだ。
「取って置きの酒がある。美濃の姫のことも片が付いたことだし、一杯飲もうではないか」
「そうだな」
やっと博雅は明るい顔になった。
簀子で仔犬が小さな欠伸をした。
結
すうきさまのリクエスト、完結です。すうきさま、リク消化できてますでしょうか〜?