半分であった月は、一度新月となり、再び満ちて、やがて美しい望月となった。
青い月の光に誘われた博雅は、例によって葉二を手に、都大路へとさまよい出た。
朱雀門の下に佇んで、ひとしきり笛を吹いた後、そのまま、朱雀大路へと足を踏み出した。
妙なる笛の音が、ゆるゆると南へ向かってゆく。
常ならぬ目を持つ者には、そこここの塀や立ち木の陰で、様々な鬼たちが、恐ろしげな者も、滑稽な者も、美しい者も、うっとりとその音に耳を傾けているのが見えたに違いない。
ややあって、
博雅は、三条大路の少し手前の辻で立ち止まり、息を整えるために笛を口から離した。
そうして、澄んだ夜空に浮かんだ月を見上げ、しばらくそこでうっとりと眺めていた。
その時、辻の闇から飛び出して、背後から博雅に襲い掛かった者があった。
博雅の首に腕を回し、
「大人しくしろ。その笛と着物を置いてゆけ」
と脅しつけた。
「…!」
博雅が返事をするよち先に、
「ぐはっ」
奇妙な叫び声がしたかと思うと、腕が緩んだ。
博雅が振り返ると、闇の中で何かが揉み合っている。
月明かりを頼りによく見ると、痩せこけて襤褸を纏った男の肩と腰と太腿に、三匹の小鬼が喰い付いていて、男はそれを振り落とそうとしているのであった。
「お、おい…」
博雅が声をかけようとすると、背後から呼びかけられた。
「大丈夫か、博雅」
いつの間にか晴明が傍らに立っている。
「おまえ、どこから湧いたのだ」
「笛の音がしばらく止んでおったのでな。式を放って様子を見させてもよかったのだが、気になったので、自分で来てみたのだ」
「では、あの鬼共は…」
「いや、あれはおれの式ではないよ」
晴明は、ぱんぱんと手を打った。
「これ、おまえたち、博雅さまはこのようにご無事であるから、その辺で許しておやり。さもなくば、祓ってしまうぞ」
鬼たちは、男に噛み付くのを止め、不服そうに晴明を見たが、「祓う」と言われて、渋々男の体から離れると、闇の中に消えた。
「いつぞや、百鬼夜行の鬼共が言うたろう。おまえを襲う盗人があらば、喰らうてしまう、とな」
「では、あの鬼たちは、おれを助けてくれたのか」
「そうだ」
晴明は頷いてから、地面に蹲った男に近寄った。
「さて、こやつをどうするか。…盗人として検非違使に引き渡すか」
男は鬼に噛まれた所から血を流しているが、それ以前に、ひどく痩せ衰えて、弱ってしまっているようである。
「気の毒に、喰うや喰わずになって、已む無くおれを襲ったのであろう」
博雅は憐れんで言った。
「何か食べ物と着る物をやってから、放してやろう、晴明」
だが、男は、晴明の名を耳にした途端、悲鳴を上げた。
「せ、晴明…安倍晴明さま!」
そして、蛙のように這いつくばった。
「ど、どうかお許しを…」
晴明は眉を顰め、男の方に身を屈めた。
「おぬしは何者だ。顔を見せなさい」
男はぶるぶる震えながら、恐る恐る顔を上げた。その顔を覗き込んだ晴明は、思わず吹き出した。
「おぬし、総の君ではないか」
「何?」
博雅は目を丸くした。
「朝忠さまの姫君を誑かしていた、いつぞやの旅の陰陽師か」
総は恐れ入って、声もなく再び顔を伏せた。
「それがなにゆえ、このように零落したのだ」
博雅が問うと、総は震え慄きながら、答えた。
「朝忠さまのお屋敷で、真の晴明さまに相まみえ、そのお力をまざまざと見せ付けられてより、いつまた晴明さまのお目に留まるかと思うと、恐ろしくて我が術を用いることもならず…」
と言って、他にこれと言って手に技があるわけでもなく、容貌の美しさと怪しげな術だけで世を渡ってきた身には、力仕事に手を染める気にもなれず、寝泊りする場所もなく、やがて食べる物、着る物にも困って、都の辻を彷徨い歩く物乞いにまで身を落としたのである。
「今宵は羅城門の下に寝泊りをしておりましたが、どこからか聴こえる美しき笛の音に惹かれて、朱雀大路を上ってゆきましたところ、こちらの殿さまのお姿をお見かけし…」
博雅が笛を奏でている間は、その音に縛られているかのように、うっとりと聴き入っていたが、笛の音が止むと、飢えと渇きに耐え切れず、
―あれだけよい音の出る笛ならば、さぞよい値がつくであろう
と思った途端、たまらなくなって、博雅に襲い掛かってしまったのであった。
総が語り終えた、ちょうどその時、晴明の目がふと総の背後の闇の一点に止まった。
何とも複雑な表情になる。
それから、総に声をかけた。
「ぬしは以前下総にいたことがあるな。…だから総と名乗っておるのか」
「は?」
総は怯えた顔で晴明を見上げた。
「な、何故お判りになりましたか」
「そして、その地でおれの名を騙り、裕福な家の娘を誑かしたであろう」
「…」
総は恐怖の余り声も出ない。
「だが、どうした訳か、急にその娘を疎んじるようになった。そして、己は海に身投げをしたように見せかけて、その地から姿を消したな」
総の歯がガチガチと鳴った。
「お、お助け…」
「おい、晴明」
博雅が目を丸くして口を挟んだ。
「まさか、この男が延命姫の…」
総は奇妙な悲鳴を上げた。
「姫の御名までご存知で―」
「何故判った」
博雅が問うと、晴明は首を竦めた。
「いや、何しろ、そこにご本人がおいでになるからな」
視線を総の背後に投げた。
弾かれたように総は振り返った。
すると、闇の中から、浮かび上がるようにして、女の姿が現れた。顔には大きな痣がある。
ギャアアアアーッ
総は、まるで断末魔のような悲鳴をあげ、その場で気を失ってしまった。