総が正気づくと、そこは荒れ家の内であった。

晴明が式に命じて、手近な空き家に運び込ませたのだ。

水と食物を与えられて人心地がついた様子の総は、問われるままに、下総でのことを語り始めた。

「では、ぬしの方から姫に近づいたというのか」

「はい」

博雅に問われて、総は頷いた。

総は、垣根の長者の裕福で、また器量のよくないのを気に病んで引き篭もりがちな娘のあるのに付け込んだ。

姫がその父と共に、総の寄寓する寺へ詣でて来た折りに、これに近づいたのである。

男に見向きもされぬと思い込んでいる世間知らずの娘を、優しい言葉と己の美貌で篭絡するなど、総には造作もないことであった。

最初は総の住む寺の庵室に、こっそり姫が通ってくるのであったが、ゆくゆくは長者の屋敷に入り込み、婿として認めてもらおうという腹積もりであったのだ。

だが、姫の父の長者は、ことの成り行きを知って激怒した。

密かに総の居処を訪れて、姫を別れねば殺す、と脅したのである。

総は縮み上がった。すぐさま姫と別れると約束した。

だが、総に身も心も溺れている姫が、それを承知するとも思えない。

長者の怒りも恐ろしいが、姫の妄執もこわい。

如何致しましょうと、逆に泣きつかれた長者が、姫に男を諦めさせるためにも、と授けた策が、海に身を投げた振りをして姿をくらます、というものであったのだ。

「まさか、姫が私の後を追うとは…。風の噂に伝え聞いて、恐ろしいことをした、と…」

「なるほど」

晴明は頷いて背後の闇を振り返った。

「姫はこのことを御存知でしたか」

すると、すうと延命姫の姿が闇に浮かび上がった。

「――――!」

声にならぬ悲鳴を上げた総を晴明が制した。

「姫はぬしに害を為そうとは考えておられぬ。落ち着け」

だが、総はその場に這い蹲って、ぶるぶると震えた。

延命姫は悲しげにその姿を見つめ、頷いた。

「父の差し金であったということは、このような姿になってから知りました」

「では、この者の語ったことは…」

「全て真でございます」

「何故、はじめに我らにはあのように…」

博雅は問いかけ、姫が一層悲しげな顔になったので、口を噤んだ。

姫は、かつての美貌が見る影もなく衰え、地獄の餓鬼のような有様となった男の姿を、ただ凝っと見つめた。

総は顔を上げ、姫の何とも言えぬような眼差しを見つめ返した。

その顔は、大きな痣を持ちながら、透き通るような美しさであった。

総はそれに気圧されるようにして、その場に伏し、号泣した。

「わたくしが、…心得違いをしておりました。どうかお許し下さいませ」

姫は何も言わず、なおも男の姿に目を注いでいたが、やがて寂しそうに微笑した。

そして、博雅の方を向いて言った。

「殿さま」

「何でしょう」

「先程のお笛、美しゅうございました。どうかいま一度…」

博雅は頷いて、葉二を唇に当てた。

紡ぎ出された煌くような笛の音に、姫はしばし凝っと耳を傾けていた。

やがて、その音に全ての妄執が洗い流されたかのように、すうっと姿を消した。

そして、二度と姿を現すことはなかった。



その後回復した総は、出家をして姫の菩提を弔いたいと言い出した。

「あの折、姫さまのお顔は、私を怨んだり、我が身の不幸を嘆いたりするお顔ではございませんでした。何と申しますか、その」

寺に入る前、晴明と博雅に打ち明けて言った。

「ただただ、深く深く悲しんでおられた」

姫自身や総の身に留まらず、世の中の不条理や、人の心の理不尽であることそのものを悲しんでいるように見えた。

「何不自由なく育った長者の娘御をあのような姿にし、あのように深い悲しみを負わせたとは、私は何と罪深いことを為したのか、と…」

総は声を詰まらせた。

「…結局、悪い男ではなかったのだな」

晴明の屋敷の簀子で、秋草の生い茂る庭を眺めながら、博雅はしみじみと言った。

「たまたま容貌よく生まれついたのと、多少の方術を身に着けた故に、裕福な女人を誑かして食い扶持を繋ぐような生き方をしてしまったが、元来は素直な人柄であったのだろうな」

「そうだな」

晴明は相槌を打った。

「…最初、姫は何故おれたちにはあのように語ったのであろうな」

博雅が問うと、

「姫は誇り高いお方だ。男に騙されて捨てられた、いいように弄ばれていた、哀れな女だと思われるのは我慢がならなかったのではないか。…自ら求めたが、男につれなくされた、と思われる方が、まだ耐えられると思われたのではないかな」

晴明は答えた。

「…そういうものなのかな」

博雅は合点がゆかぬような顔をした。それからふうと吐息をついて、

「どちらにせよ、哀しいお女(ひと)であったなあ」

ぽつんと呟いた。

「うむ」

晴明は、遠くへ視線を投げるようにして頷いた。

博雅はそれきり黙りこんだが、そのうち、懐から葉二を取り出し、唇に当てた、

優しい旋律が、庭の萩をそっと撫でて漂っていった。






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