それから、数日経ったある夜のこと。
藤原朝忠の屋敷の庭に、忍び入る影があった。
姫が寝起きする対まで来ると、簀子に上がって、ほとほとと妻戸を叩いた。
すると、内側から戸が開いたので、影はするりと中へ入り込んだ。
戸を開けたのは、藤の襲の装束を纏った美しい女房であった。男を導いて御簾の内に入り、几帳の向こう側へ声をかけた。
「姫さま、総(ふさ)の君がお見えになりました」
「まあ」
几帳の向こうから、姫が弾んだ声を出した。
「お待ちしておりました。さあ、こちらへ…」
総と呼ばれた男は美しい顔に、束の間卑しげな笑みを浮かべたが、直ぐに居坐いを正して几帳の内へ入ろうとした。すると、
「あれ」
急に背後の女房が声を上げた。
「このお方には大きな尻尾がございます」
「何」
総が慌てて振り返ると、確かに、己の袴の尻から、黒く大きな尾がふっさりと生えている。
「何ですって」
次の間に控えていた女房たちが次々と御簾の内に入って来て、
「まあ、ほんとうに」
と、一斉に顔を顰めた。
「そう言えば、何やら獣の如き臭いが致しまする」
「ほんとうに」
藤の襲の女房が言うと、女房たちは一斉に袖口で鼻を押さえる。
総が何が何やら判らなくなっておろおろしていると、
「何の騒ぎです」
姫が几帳の内から顔を出した。そして、総の顔をひと目見るなり、
「あれ」
と悲鳴を上げたかと思うと、気を失ってその場に倒れ伏してしまった。
「あれ」
「物の怪じゃ」
「こわや」
「こわや」
女房たちも恐れおののいて逃げ惑う。
総は慌てて、そこにあった鏡を覗いて、己が顔を見た。そして、肝を潰した。
そのこに映っていたのは。
真っ黒な毛の逆立った、鼻の尖った大きな貂(てん)の顔であった。
己の両腕を見ても、ふさふさとした黒い毛で覆われている。
呆然としていると、藤の襲の女房が、別の大柄な女房と共に、これを取り押さえにかかった。
大柄な女房は力が強く、呆気なく床に押さえ込まれてしまう。
すると、藤の襲の女房が、声を張り上げた。
「早う、晴明さまをお呼び下さいませ」
―せ、晴明!?…あ、安倍の晴明か?
総は、全身に冷や水が浴びせかけられたかのように、ぞっとした。
すぐに、
「いかが致しました、姫」
落ち着き払った、涼やかな声が聞こえた。そして、御簾を掲げて、白い狩衣姿の男が入って来た。直衣姿の公達が後に続く。
狩衣の男は、総を見ると眉を顰めた。
そして、つかつかと歩み寄ると、懐から呪符を取り出し、獣の額にぺたりと貼り付けた。
その途端、総は全く身動きが取れなくなった。口を利くこともできない。
「卑しき物の怪の分際で、人の姿を借りて、やんごとなき姫に近寄るとは、言語道断」
晴明は、真面目くさって申し渡した。
「こたびは命だけは助けてやる。二度とここへは姿を見せるでないぞ」
そして、小さく呪を唱えてから、額から呪符を外した。
体は動くようになったが、口は利けぬままだ。或いは、呪によるのではなく、恐怖の余り声が出なくなっていたのかもしれない。
「疾く、去ね」
晴明が言い終わるか終わらぬうちに、黒い獣の姿をした総は、脱兎の如くその場から姿を消した。
「結局、あの男は妖物であったということか」
帰りの車の中で、博雅が問うと、晴明は笑いながらかぶりを振った。
「そうではない」
「だが、おれは見たぞ、大きな黒貂が水干を着て座っておったのを」
「それは、おれが呪によってそのように見せていたからだ」
「何…」
「おまえ、あの屋敷の女房たちの中に蜜虫がおったのに気付かなかったか」
「おお」
博雅は頷いた。
「妖物が女人方に危害を為そうとした時に備えてのことと思うておったが、では」
「おれが蜜虫を通じて男に呪をかけるためにおらせたのだよ」
「…」
博雅は眉を顰めた。
「それでは、ちとあの男が気の毒ではないか」
「まあな」
晴明はあっさり頷いた。
「こたびの話、姫があやつに真剣に惚れておられるのであれば、おれなどがしゃしゃり出て無粋な真似をするのも面白くないと思うて、初めは断ろうと思うたのだが」
と、懐に手を入れて、小さな香炉を取り出した。
「あやつ、これを使うて女人方を操っておったのだ」
「何だ、それは」
「姫のおられる対の簀子に置いてあったのを持って来たのさ。…中には、人を思い通りに操ることの出来る香が仕込んである」
「何と…」
「朝忠さまの仰る通り、分別ある年配の女房までもが、身分卑しい男が姫に近づくのを許しておるのは、妙だ。そこで、調べてみたら、案の定であったよ」
「ふうむ」
「女の心を操って、思い通りにするというのは、如何にも趣味が悪い。それで、ちと痛い目に遭わせてやったというわけさ」
「なるほど」
博雅は得心した。
「まあ、屋敷から一町ほど遠ざかれば、呪が解けて、また人の姿に見えるようになるさ」
晴明は笑いながら言った。