翌日、晴明と博雅は、車上の人となった。
「しかし、ひどい男もあったものだな」
博雅は眉を顰めた。
「ただ、お顔に痣があるというだけで、お人柄に触れようともせず拒む、というだけでも、いかにも薄情な仕打ちであるのに、自害した振りをして行方を眩ますなど、質が悪い」
晴明は苦笑した。
「それだけあの姫の妄執が恐ろしく思えたのであろう。自害した振りをする、というのは少々やりすぎではあるが」
「全くだ」
博雅は頷いた。
「その上、おまえの名を騙っておったとは、何という命知らずだ」
晴明の苦笑が更に深くなった。
「命知らずかどうかは知らぬが、存外多いようだよ。都から離れた国で、おれの名を騙り、怪しげな真似をする者共がな」
「そうなのか?」
博雅は驚いた。
「それは迷惑な話だな」
「確かにな」
頷いた晴明の口元からは笑みが消えない。それほど迷惑とは思っていないようだ。
延命姫の霊は、あの後、
「晴明さまと、そちらの殿さまには、大変なご迷惑をおかけしてしまいました」
と丁寧に謝ってから、見るからに悄然とした様子で夜の闇へと消えた。
「それにしても、姫にはお気の毒であった」
博雅は溜息をついた。
「ところで」
「うむ」
「今宵の参議さまの御用とは、どのようなことなのであろうな」
「そうだな」
二人が向かっているのは、参議藤原朝忠の屋敷であった。
「内密に、晴明どのにお願いしたいことがある」
と、博雅を通して申し入れてきたのである。
「何やら、ひどくお困りのようであったが」
「そうか」
「朝忠の参議さまと言えば、かのお方の姫の一人に、おれの従弟の雅信が通うておって、近々正式に北の方としてお披露目があるのだよ」
博雅は眉を顰めた。
「その姫に関ることなのであろうか」
そんなことを言っているうちに、車は朝忠の屋敷に着いた。
博雅の考えた通り、朝忠の懸念は、娘である姫君のことであった。
「どうも、雅信どの以外にも男が通うておるようなのです」
ひどく困り果てた顔である。
博雅の従弟、源雅信は、現在参議の位にあり、将来更なる出世を見込まれている、いわば若手の期待株であった。
朝忠としては、是非娘を縁付かせたいと思うのは当然であろう。
「それは、どちらの公達なのですか?」
博雅が問うと、朝忠の顔はほとんど悲痛な様子になった。
「それが・・・」
高家の公達などではなく、どこの馬の骨とも知れぬ、身分のあやしい男である、という。
「そのような者が何故、こちらの姫君のような方に・・・」
「実はこんなことがあったのです」
朝忠は沈痛な面持ちで語り始めた。
それは二月ほど前のこと、姫が長谷寺に参詣した折りのことであった。
寺の門に差し掛かった時、車に乗っていた姫が突然胸を押さえて苦しみ始めた。
伴の者たちがうろたえ、騒いでいると、一人の男が一行に近寄ってきた。
「何やらお困りのようですが・・・」
見ると、身なりは余りよいとは言えないが、顔立ちの大層美しい男である。
その美しさに思わず心を許してしまった伴の女房たちは、姫の様子を見せて欲しいという男に言われるまま、車の内に招じ入れた。
男が苦しむ姫の背を2、3度撫でて、手にした竹筒の水を姫に飲ませると、不思議なことに、たちどころに姫の苦痛は取り除かれたのである。
「・・・それは怪しいですな」
晴明は苦笑交じりの声で言った。朝忠も頷いた。
「今思えば見え透いた手でありました。姫に苦しみを与えたのも、これを取り去ったのも男の仕業に相違ありませぬ」
「困ったものですな」
博雅が眉を顰めた。
「以来、男は姫の治療と称して、夜な夜な通うてくるのです。雅信どのの手前もありますし、そのような怪しき男が通うておると世に知れれば、姫の名に傷が付きます故、これを禁じたのですが」
朝忠は重い吐息をついた。
「何しろ、姫があの男に夢中で・・・。女房共も残らず男の味方で、誰かしら、姫の寝所の戸を開けるようなのです」
「雅信さまは、このことは・・・」
「小賢しい男でしてね。雅信どのが訪ねてこられる夜はうまく避けるばかりか、姫や女房共にも己のことを口止めしておるようで、雅信どのは全くご存知ないようで」
「ふむ」
「だが、いかに見目麗しい男とは言え、姫や若い女房共はともかく、古参の女房までもが、抱き込まれてしまっているというのは、少々腑に落ちませぬ。或いは・・・」
「何か妖術を使うておるのではないか、ということでしか?」
博雅が言うと、朝忠は眉間の皺を深くして、
「妖術ならばまだしも、或いはあの男そのものが何かの妖しではないかと・・・」
縋るような視線を晴明に向けた。
「それで、晴明どのにお出で頂いたのです。・・・何とか男の正体を暴いてもらえまいか」
「そうですな・・・」
晴明は考え深い顔になり、
「お受けするかどうか決める前に、ちと姫の住まわれている対を見せて頂けないでしょうか」
と言った。
「庭先からで結構なのですが」
「もちろん、構いませぬとも」
朝忠は手を打って、人を呼び、晴明を庭へ案内するよう命じた。