延命姫

どんよりと曇って、星も見えぬ夜であった。

堀川大路を、一人の男が松明を手に急ぎ足で南に向かって歩いていた。

白い水干に、折れ烏帽子という身なりは、何処かの屋敷の舎人と見えた。

急な使いであるらしい。

二条大路を過ぎよう、という辺りで、ふと声をかけられた。

「もし」

振り返ると、丁度辻の丑寅の隅に、被衣を被った女が立っているのが伺えた。

急いでいたので、無視してゆこうかと思ったが、何故か足は止まっていた。

仕方なく、

「如何しました」

と声をかけると、女は少しずつこちらへ歩み寄りながら、

「ひとつ、ものをお尋ねします」

「何でしょう」

「安倍晴明さまのお屋敷はどちらでしょう」

言いながら、女は松明の光の届くところまで来た。

鄙びた風の、垢抜けない意匠の衣であったが、品はよいものを纏っている。

顔は被衣に隠れて見えない。

―面倒な

男は内心思ったが、足を止め、声をかけてしまったものは致仕方ない。堀川大路を北へ行って、一条戻り橋を渡って、と教えてやると、女は、

「有難うございました」

と深々と礼をした。

頭を起こしたところで、被衣が外れて女の顔が露わになった。

その顔を見た途端、

「うわあああああ」

男は腰を抜かして、松明を放り出した。

火が消え、辺りが真っ暗になる中を、男は這うようにして、ようようその場から逃げ去ったのである。



翌晩は晴れであった。

それでも、幾らかは残る薄い雲の間から、半月が覗くのをほろほろと愛でながら、博雅は徒歩で晴明の屋敷に向かっていた。

「気持ちのよい夜だなあ」

あの月が再び丸くなれば、中秋の名月である。

博雅は、足取りも軽く、例によって、

「おるかな、晴明」

と呟きながら、戻り橋を渡った。だが、渡り終えた途端、

「む」

急に肩が重くなったような気がした。

首をかしげながらも、そのまま晴明の屋敷に向かう。

独りでにカタリと開いた門の内に入り、出迎えた蜜虫に導かれてゆくと、いつもの簀子には晴明はいなかった。

灯火台に灯りが点り、円座が二つしつらえてあり、酒の支度もしてある。

―おや

と首を傾げる間もなく、奥から声がした。

「博雅、こちらだ」

そこで、母屋に入っていくと、そこにぽつんと灯りを灯して、晴明が座していた。博雅の顔を見ると、顔を顰めた。

「また、おかしなものを連れて来たなあ」

「おかしなもの?」

博雅は首を傾げ、背後を振り返った。

廂に蜜虫が控えているのが見えるだけである。

「まあ、座れ」

促がされて、博雅は晴明と差し向かいに座した。

晴明は膝立ちになって、博雅ににじり寄ると、右の人差し指と中指をぴたりと博雅の唇に押し当て、

「おれがよいと言うまでは、声を出すなよ」

と言った。

博雅は、訳も分からぬまま、黙って頷いた。

晴明は、右手の指を博雅の額にあて、左手を博雅の右肩に載せた。反射的に博雅は目を伏せる。

それから、晴明はしばらく何やら呪を唱えていたが、やがて、

「はっ」

と、小さく気合を入れて、軽く博雅の額を打った。

びくり、として博雅が目を開くと、先ほどまで何やら重く感じていた肩がふうっと軽くなった。

「もう声を出してもよいぞ」

晴明は言い、博雅の肩越しに視線を投げた。

博雅が振り返ると、そこにぼうと青白く光る影が蹲っていた。

影は次第にはっきりとした形を取り始め、まもなく、それが袿姿の女であることが見て取れた。

女はじいっと顔を伏せている。

博雅は、目を丸くして、晴明と肩を並べるように、体を移した。

「あなたは、どなたです」

晴明が問うた。

すると、女は顔を伏せたまま、

「やれ、嬉しや。ようやくそなたさまとお会いできるとは・・・」

と、細い声で言い、ゆっくりと顔を上げた。

上げた顔には、額の右側から頬にかけて、大きな痣があった。

痣のある女の鬼は、さも嬉しげな笑みを浮かべ、晴明を見た。

途端に、その顔からすっと笑みが引いた。そして、

「あなたさまが・・・安倍晴明さま?」

と問うてきた。

晴明は頷いた。

「如何にも、わたくしが晴明ですが」

女は、到底信じられぬと言うように、大きく目を見開いた。

「真に・・・?」

「はい、真に」

「・・・そんな・・・」

女の目から見る見るうちに涙がせり上がってきたかと思うと、

「違う!この方ではない!」

と、叫んで、わっとその場に泣き伏してしまった。

「晴明、これは一体どういう・・・」

博雅が問うと、晴明は少し困ったような顔で、

「実はな、ここしばらく、この屋敷の近辺で、女の鬼が出る、という噂が立っておったのだ」

深夜、道端に被衣を被った女が佇んでいて、通り縋る人に、

「安倍晴明さまのお屋敷は、どちらですか?」

と、問う。

その被衣の下の顔は、と見ると、世にも恐ろしい鬼の顔である、と言うのだ。

「鬼の顔?」

博雅は、突っ伏したままの女に目をやった。

確かに、先ほど目にした女の顔には、大きな痣があって、それが見苦しくないかと言えば、嘘になる。

だが、鬼と見紛うほど、醜いとも恐ろしいとも思えない。

「まあ、夜の闇の中で垣間見れば、何かの加減でそのように見えたりもするであろう」

晴明は苦笑した。

「その女の妖しが、近頃ではここを突き止めたと見えて、盛んに塀の外をうろついているようであったのだ」

だが、晴明の屋敷に、妖しの類が入り込む隙など、ある訳がない。

「それで、おまえにとり憑いて入り込んできた、という訳さ」

「ふうむ」

それで、晴明の屋敷に近づいた時、急に肩が重くなった気がしたのか、と博雅は納得した。

そして、女がなおも泣き崩れているので、気の毒になって声をかけた。

「もし、何をそのようにお泣きになるのですか。あなたは、一体どこのどういうお方なのです」

すると、女は泣くのを止めて、体を起こした。顔は伏せたまま、

「私は、下総に住まいする、垣根の長者の娘でございます」

「下総?」

博雅は驚いた。

「それは、随分と遠いところから・・・」

「はい」

女は頷いた。

「その、長者どのの娘御が、何故そのような有様に・・・」

重ねて問うと、女は更に項垂れた。そうして、次のような話を語った。



女は延命姫と呼ばれ、父の長者に大変に慈しまれて、何不自由なく育った。

ただ、幼い頃の事故で、顔に大きな痣が出来てしまい、それが生涯消えぬと分かると、世間並みに婿は取れぬ、と早くから諦められていた。

父の愛情が並々ならぬものであったも、それを不憫と思ってのことであったようである。

ところが、一年前の春のこと。

父と共に近在の東光寺という寺を参詣した姫は、そこで一人の男と出会った。

男は鄙には珍しいほどに容貌が美しかったので、ひと目見るなり、姫は恋に落ちてしまった。

「そのお方は、都の高名なる陰陽師、安倍晴明さま、と名乗っておられました」

姫が言ったので、博雅は思わず晴明を見、晴明は苦笑した。

とにかく、その、晴明と名乗る男に身も世もなく恋焦がれた姫は、人に文を持たせて、己の想いを伝えようとした。

しかし、男は、姫の容貌が醜い、と聞いていたので、素っ気無い断りの手紙を寄越した。

それでも、姫の恋情は止まず、幾度も文を送ったが、男が心を動かさぬ。

姫は、思い詰めた挙句、ある夜、屋敷を抜け出し、男の住む庵の戸を叩くまでの有様となった。

だが、姫の痣のある顔をひと目見た男は、庵の中に一歩も入れぬまま姫を追い返した。

そして、翌朝になると、庵を引き払って、少し離れた真福寺に身を寄せてしまった。

恋に狂った姫は、髪を振り乱し、真福寺まで徒歩で男を追ってゆこうとした。

事の成り行きに驚いた父親が娘を連れ戻したが、その間に、男は、

―あのように、見苦しい様で恋焦がれられては、到底この世にては安寧な暮らしは望めぬ。かくなる上は、一刻も早く浄土へと往生せん

といった旨の書置きを遺し、通連坊という断崖から海に身を投げてしまったのである。

姫は大いに驚き、嘆いた。

男が身を投げた崖の縁まで行き、そこに残されていた男の履物を抱いて泣きじゃくった後、己もそこから海へ身を投じて果てた。

ところが、件の男は、実は身を投げてなどいなかったのである。

姫の求愛から逃れるため、偽の書置きを残し、己の履物を崖の縁に並べておき、荷物を纏めて都へと旅立ってしまったのだ。

そうと知った姫の魂は往生も叶わずにこの世を彷徨い、東国から都へ上る旅人の身に憑いて、都まで辿り着いた。

だが、男の語った名さえ偽りであったのだ。

「安倍晴明さまのお屋敷さえ、訪ねあてれば、あのお方にお会いできると思うておりましたのに・・・」

延命姫は、再びその場によよと泣き崩れた。



続く


元ネタは、千葉県銚子市に伝わる伝説。

後に、身投げした姫の歯と櫛が流れ着いたので、地元の人が姫を哀れんでこれを歯櫛明神として祭ったのが、現在、銚子市にある川口神社だそうな。

巷説の二次創作のための調べ物をしていて、偶々見つけて、「うわあ、晴明、ひでェ〜」と大ウケしてしまったのですが、これはネタにせねばと思って、ググってみたところ、晴明説話としては、割とメジャーな話だったのですね(汗)。

さすがに、獏版陰陽師の晴明さまは、こんなことはしないだろう、ということで、このようにアレンジを加えてみました。如何でしょう?

それにしても、『王都』で岩崎先生が、晴明は「案外いい人な伝説が少ない」と書いておられましたが、全くその通りですな。



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