博雅は、三条大路の奥からやってきた牛車が、目の前に停まったので、不審に思って顔を上げた。
牛を引いているのが、若く美しい男装の女人であるので気付いてもいい筈であったが、車の前の御簾を掲げて現れた晴明に、驚いて、思わず笛を唇から離した。
「博雅・・・」
晴明は、感情の読み取れぬ眼差しで博雅を見た。
「近頃顔を見ぬと思うておったら、このようなところで笛を吹いておったのか」
それから、その目をひすいの方へ向け、
「こちらは・・・」
「・・・」
博雅は困り果てて、晴明とひすいの白い顔を代わる代わる見た。
ひすいは、松明の火に浮かび上がる晴明の顔の美しさに見惚れているかのようである。
「どうした、博雅・・・」
「・・・」
晴明に促され、博雅は意を決した。
「実はな、晴明・・・」
ごくりと唾を呑み込み、
「この子は、ひすいという名でな。その、梨花どのの御子なのだ」
「何・・・」
晴明の形のよい眉がすうっと顰められた。
「それで、その、この子の年恰好で判ると思うが、父(てて)親がな・・・」
その瞬間、
ひすいの姿が夜気の中に溶け込むように、跡形もなく消えた。
老従者の姿も煙の如く失せ、手にしていた松明がばさりと地面に落ちる。
博雅は声もなく立ち尽くした。
晴明は、牛車を下り、松明を拾い上げた。
そして、笑みを含んだ目で口をぱくぱくさせている博雅を見遣り、
「おまえ、梨花にいっぱい喰わされていたようだな」
「喰わされた?」
「ひすいは、恐らく梨花が作った式だ」
「式だと?」
「梨花の居所は判っている。さあ、車に乗れ」
「お、おう・・・」
晴明は松明を式に持たせてから、博雅に続いて車に乗った。
車がゴトリと動き始める。
ようよう口が利けるようになった博雅は、
「何処へ向かっているのだ」
と問うた。
「何、すぐそこさ」
「すぐそこ?」
「四条堀川だよ」
堀川小路をほとほとと下って、車はすぐに四条に達した。
車が急にガタンと停まったので、博雅が前の御簾を掲げて見ると、行く手にぼうと白い影が立っている。
「何だ?」
博雅の傍らから覗いた晴明は、思わず苦笑した。
「つまらぬ悪戯をする」
白い顔は、真っ白な衣を纏い、青白い顔をした若い女であった。
女はゆっくりとこちらへ近づきながら、細い声で呟いた。
「何故にわたくしをお捨てなされました」
「お怨み申し上げます」
「愛しい殿」
「殿に恋焦がれる余り、はかなくなってなお、殿への想い断ち難く・・・」
「いっそ共に冥府へお連れせんと・・・」
呟きながら、女は一歩一歩車へ近づいてくる。
「・・・おい、晴明」
博雅が声を出した途端、白い女と向かい合った晴明の式が、女の額に手を当てた。
すると、女は。
キエエエエエエ―――ッ
と、奇妙な悲鳴を上げ、体を仰け反らせると、くたくたとその場に座り込み、やがてふうと消えた。
「何だ、あれは」
「梨花の悪戯だ。多少後ろ暗いところのある男なら、このようなものでも心底震え上がってしまうであろうよ」
晴明は車を下り、式の足元に落ちていた紙の人形を拾い上げた。
そして、右手の人差し指を当てて、軽く呪を唱えると、人形は再び女の姿を取った。
今度は白い衣ではなく、柳襲の女房装束姿の、頬のふくよかな美しい女である。
「そなたの主人の許へ案内しておくれ」
晴明が言うと、女は、
「畏まりました」
と丁寧に頭を下げた。
女が導いたのは、小奇麗な屋敷の門前であった。
車を下りた晴明と博雅が門の前に立つと、門は一人でにギイと開いた。
門の内もまた小奇麗に整えられていた。
式の女に導かれて母屋へ入ると、そこには誰もいなかった。
ただ、部屋の中央に、碧色の玉に彫られた美しい鳥の置物が、絹布の上に置かれていた。傍らに文が添えられている。
「これは、中納言さまのお宝の玉器ではないか」
博雅が言うと、晴明は頷いて、文を取り上げさらさらと開いた。
一通り目を走らせると、苦笑した。
「何が書いてあるのだ?」
博雅が問うと、晴明は首を竦め、
「此度もわたくしの負けでございますね。玉器はお返しします、ということだ」
それから、
「我が子に笛の手解きをして下さったこと、博雅さまには重々お礼を申し上げて下さいまし、とも書いてある」
「むう」
博雅は複雑な顔で唸った。