「小一条中納言さまは、あの夜、実は宴の席を抜け出しておったのよ」
「そうなのか?」
「中納言さまに仕えておる女房から聞き出した。・・・御簾の内で休んでいる振りをして、夜半一刻ばかり屋敷を抜け出しておられたそうだ」
「何故それをお前には隠しておられたのかなあ」
「いや」
博雅が首を傾げると、晴明はかぶりを振った。
「ご自分でも覚えておられなかったのだろうよ。・・・覚えておられたなら、そちらに疑いが向かったであろうからな」
「そのようなことが、あるものなのかな」
博雅は首を傾げ、
「では、中納言さまはどこへ忍んでおられたのだ」
「決まっておるだろう」
晴明は、品のよくない笑みを浮かべた。
「忍んでゆくと言えば、女だ」
「女か」
「中納言さまは、先程の四条堀川の屋敷に住む女に通うておったのよ」
「では」
博雅は目を見開いた。
「その女とは、梨花どのであった、ということか」
興福寺の時と同じである。
梨花は、以前興福寺の僧の囲われ女となり、男から鍵を盗んで寺の財物を掠め取っていたことがあった。
「鍵さえ手に入れてしまえば、男が屋敷に戻った後、忍び込んで宝をせしめることなど、あの女にとっては容易いことであろう」
玉器を奪ったその足で寝所に忍び込み、眠っている師尹の懐に鍵を戻すことなど訳もないことだ。
「中納言さまに術をかけて、己と逢っていたことを忘れさせてしまうこともな」
「何と大胆不敵な」
博雅は呆れて首を振った。それから、
「それにしても、梨花どのは、一体何故あのような戯れを・・・」
「梨花が、おれの子とも道満どのの子とも判らぬ子を産んでいた、ということか?」
晴明はずけずけと言った。博雅は赤くなって、
「すまぬ。つい梨花どのの口車に乗せられてしまったようだ」
と謝り、それから、
「おまえのことだから、どこぞに隠し子の一人や二人、いてもおかしくはない、と思うたしな」
「博雅・・・」
晴明は苦笑した。
「おれも、おまえのところで式を見慣れていたので、生身の人と区別がつくようになったと思うていたのだが」
博雅は悔しそうに言った。
「幾日もひすいに笛を教えていて、かの者が式であるとはまるで気付かなかった」
「それも仕方あるまい」
晴明は事も無げに言った。
「あれは特別だ」
「特別?」
博雅が問い返すと、
「あのひすいという式はな、これの精なのだよ」
晴明は手の中で布に包まれている件の玉器を示した。
「何?」
博雅の目が、晴明の手の中に注がれた。
「では、その中にひすいがおるというのか」
「そうさ」
晴明は頷いた。
「この玉器はな、今より一千年の昔、漢の武帝が、寵愛する李夫人のために作らせたものだ。李夫人亡き後、その墓に共に葬られる筈が、不心得者によって盗み出されて以来、転々としていたものなのさ」
晴明は、右の掌を玉器の上に翳して、
「かの国の帝が美しい妃に寄せた愛欲の念、高貴な美女が帝に寄せた思慕の念が、これに籠められておる上に、一千年もの間、幾千幾万の人の気を吸うておる。その精より作り出された式だ。並のものではあるまいよ」
「ふうん」
博雅は感心した。
「さて」
晴明は手を下ろして、
「これから中納言さまのお屋敷へ、これを届けにゆくが、おまえはどうする?」
問われて、博雅は少し首を傾げ、
「・・・いや、おれが共にゆくと、玉器が失せたことが世間に広まっていると中納言さまに知らせることになろう。大層恥ずかしい思いをなさるに違いない」
それから、晴明の方を見て言った。
「おれは、おまえの屋敷で待っておるよ」
「そうか」
晴明の紅い唇に浮かんだ笑みが、深くなった。
「ならば、このまま土御門まで行って、おまえを下ろしてからゆこう。・・・薫を相手に酒でも飲んでいてくれ。よい酒が手に入ったので、おまえと飲もうと思って取ってある」
「おお」
博雅の顔がぱあっと明るくなった。
晴明に隠しておかねばならぬことがなくなって、胸のつかえが下りた心地である。
「それは楽しみだな」
嬉しそうに言った。
藤原師尹の屋敷を晴明が訪れると、師尹は、どういう訳かあの夜四条堀川を訪れたことを思い出しており、晴明がそこで玉器を見つけたことを告げると、
「やはり、あの女の仕業であったか」
と悔しがった。
少なからぬ謝礼を受け取ってから、晴明は屋敷を出、門前に停めてあった車に乗ろうとした。
だが、ふっと眉を顰めると、牛の傍に付いていた式の方へ歩み寄った。
「そなた・・・」
と声をかけると、松明を手にし、頭を下げていた男装の女は、顔を上げた。
顔を上げたのは、式の女ではなかった。式ではなく、生身の・・・
「梨花」
晴明は呟いた。
梨花は艶然と微笑んだ。
「晴明さまが、わたくしの式を奪ってしまわれたので、仕返しですわ」
晴明はにこりともせず、眉間に皺を寄せた。
「何故博雅さまにあのようなことを・・・」
「あら、あれは、わたくしが進んで為したことではございませんのよ」
梨花は惚けたふうに、
「あの玉器の精は、一度博雅さまのお笛を中納言さまのお屋敷で聴かされていたらしく、自ら博雅さまのお笛を慕うて出ましたの」
「・・・」
「何をそのようにこわい顔をなさいますの?」
「もう二度と博雅さまには手出しをするな。・・・おれや道満どのへの意趣とは関りがないではないか」
「ほんとうに、晴明さまはお変わりになられましたのね」
梨花は笑った。
「もちろん、あなたさまへの意趣返しのために、博雅さまをどうこうする気がございません故、安堵なされませ」
そして、松明を晴明の手に押し付けて、
「わたくしはこれで失礼致します。いつかまた、お目にかかる日もございましょう」
深々と頭を垂れた。
踵を返し、二、三歩歩み去ろうとしてから、ふと足を止め、星の散らばった空を見上げた。
「晴明さま」
「・・・」
「わたくしも、あのような方にお会いすれば、晴明さまのように変われるやもしれませぬ」
それから、軽く笑い声を立ててから、都の夜の闇の中へ歩み去った。
結