朽ちかけた戸をガタガタと開くと、床に敷かれた筵の上に、老人がこちらに背を向けてごろりと寝そべっていた。
振り返りもしないで、声をかけてくる。
「来たかよ、晴明」
「道満どの」
晴明は戸を閉めて、道満に歩み寄った。道満の背を見下ろすようにして、単刀直入に切り出した。
「藤原師尹さまのお屋敷から重宝の玉器を奪われましたか」
すると、道満はこちらに背を向けたまま、
「あれは面白い品じゃ。唐土で一千年も前に作られた物であるから、どんな力が籠っておるか知れぬ」
く、く、く、と笑い、
「欲しいのう」
「欲しゅうございますか」
「おう、欲しい」
「では」
晴明は軽く顎を引き、目をすうと細めた。
「玉器を奪ったは、道満どのではないのですね」
「そうじゃ」
「では、どなたなのです」
すると、道満はまたくつくつと笑い声を立てた。
「戻って、師尹に訊ねるがよい」
「・・・」
「宴の夜、こっそり四条堀川を訪ねなんだか、とな」
「四条堀川、ですか」
晴明は眉を顰めた。
「おう」
「まさか、あのお人が・・・」
道満は相変わらす笑みを含んだ声で、
「さあ、なあ」
「判りました」
晴明は頷くと、道満の背中に向かって軽く頭を下げ、
「失礼致します」
と言ってから、ぼろぼろの戸をガタガタを押し開けて、外へ出た。
博雅は、堀川に沿って、南へ向かって歩いていた。
この夜も、堀川の橋の袂でひすいに笛を教える約束をしていたので、そちらへ向かっているところである。
よく晴れた夜空一面に星々が散らばった、美しい夜であったが、博雅はひどく気を重くしていた。
ひすいと会うのが嫌なのではない。むしろ利発で素直な童に笛の手解きをしてやるのは、楽しみなくらいだ。
このところ、余り晴明の屋敷に足を運んでいないことと、晴明に対して秘密を抱えてしまっていることが、博雅の気を塞ぐのである。
晴明には会いたい。
だが、晴明に打ち明けられぬことを腹に抱えていると、晴明と顔を合わせているのがひどく心苦しい。
それで、晴明の屋敷からも足が遠のきがちになるのである。
その秘密とは、ひと月ほど前に、堀川の橋の袂で顔を合わせた、ひすいの母という女のことであった。
女の名は、梨花という。
大和の興福寺を荒らし、博雅の身をも「盗み出した」女盗である。
さらに、
かつて蘆屋道満の妻でありながら、晴明とも情を交わしていたという、到底一筋縄ではゆかぬ、厄介な女であった。
「ひすいは、梨花どのの御子であったか」
そう問いかけながら、博雅は少し嫌な予感がした。
「はい」
梨花は美しい顔をにっこりと綻ばせた。
「博雅さまがわたくしの子に笛の手解きをして下さるとは、望外の幸せでございます」
その、淑やかな様子に、
―盗人とはいえ、人の子の母ともなれば変わるのだな。
と、博雅は思い、
「いや、そなたの御子はなかなか筋がよい。私などが手解きするのはおこがましいほどだ」
と答えた。
すると、梨花は、ふと表情に翳りを作った。
「我が子に笛を教えて頂く上に、このようなことをお願いするのは、大変に心苦しいのですだ」
「何だね」
「我が子のことは、晴明さまには伏せておいて頂きたいのです」
「・・・それは何故なのだね」
「はい」
梨花は、さもしおらしげに伏目がちになった。その様を見ただけでは、巷を騒がした女盗とは到底思えぬであろう。
ましてや、並外れた陰陽師を二人までも男として手玉に取った女、であるとは思いもつくまい。
梨花は、少年に声の届かぬところまで離れているよう、告げてから、語り始めた。
「わたくしがひすいを身籠りましたのは、丁度わたくしが道満さまの妻として四条堀川の家に住み、そこへ晴明さまも足繁く通って下さっていた折りのことなのでございます」
「・・・」
博雅は、嫌な予感が中った、と思った。
「それは、つまり・・・」
「はい」
梨花は憂いを帯びた瞳を博雅に向け、
「あの子の父親(てておや)は、道満さまか、晴明さまのいずれか・・・。いずれが父かは、わたくしにも判りませぬ」
予感があったとは言え、余りに途方もない話に、博雅は困惑した。第一、この手の話は苦手だ。
「ですので、あの子の存在は、道満さまにも晴明さまにも伝えとうはございません・・・」
「判った」
博雅は頷いた。
「固より、殊更晴明に伝えるべきこととは思うてはおらぬ。母御にはご案じなされませぬな」
「忝く存じます」
梨花は深々と頭を下げた。
「博雅さまのご気性ならば、おそらくそうであろう、と思うてはおりましたが、何しろ」
ちらりと博雅を上目遣いで見た。
「晴明さまと博雅さまは、大層仲がおよろしいので・・・」
博雅は、その視線の意味を深くは捉えず、生真面目な口調で言った。
「いや、いくら親しい仲とは言え、言うてはならぬことがあることは、私も弁えている」
梨花は、ふ、と笑い、もう一度丁寧に頭を下げたのである。
思い返しているうちに、いつか目的の橋に辿り着いていた。
橋の袂には、もう、ひすいが来て待っていた。
傍らには、母親がつけて寄越しているたしい老いた従者が、松明を持って立っている。
ひすいは、博雅の姿を見ると、にっこりと笑った。
その白く端正な顔に、道満のむさ苦しい面影など見出しようもなかったが、さりとて晴明に似ているとも言えなかった。
だが、そんなことは、幼い童には、何の関りもないことだ。
博雅は気を取り直し、挨拶の言葉を交わしてから、優しく声をかけた。
「では、先日のお浚いをしてみようか」
「はい」
ひすいは、頷いて龍笛を取り出し、唇にあてた。
三条大路を、堀川へ向かって車を進めていた晴明は、ふと、夜の静寂(しじま)の奥から、漏れ出でるような笛の音に気付いた。
最初は多少拙い技(て)のようであったが、やがて聴こえてきた、心の奥底まで染み透るような音を、晴明が聴き違える訳もなかった。
「・・・あれは、葉二・・・」
博雅が、誰かと笛を和しているのであろうか。
堀川へ近づくほどに、笛の音は大きく聴こえてくる。
そして、
堀川へ達した車は、そこにかかる橋の袂に停まった。
車の前の御簾を掲げて外を見ると、松明の灯りの中に、三つの人影が佇んでいる。
一人は松明を掲げた老人。
いま一人は、萌黄色の水干を、涼やかに纏った美貌の少年。
そして、葉二を手にした博雅が、晴明の姿を見て、驚いた顔をしていた。