翡翠

ようよう残暑も去り、朝夕には、戸を開くと、外気の思わぬ冷たさに首を竦めることが多くなった。

「もう、すっかり秋なのだなあ」

土御門の晴明の屋敷。

簀子で、晴明を差し向かいに座した博雅は、紅葉にはまだ早いものの、すっかり秋めいてきた庭を眺めながら、しみじみと言った。

「夏の盛りには、こう毎日毎日暑くては叶わぬ、早く秋にならぬか、とそればかり思うていたが」

清楚な花を咲かせた、ひとむらの萩に目をやり、

「こうして暑気も去って、風が秋めいてくると、何やら寂しい心持になるなあ」

「そうか」

晴明は盃を口にあてて頷いた。

「何やら、夏の盛りの明るい日差しが恋しく思われる時すらもあるから、人というのは可笑しなものだ」

「そうだな」

それからしばらく黙って、涼やかな風にあたってうっとりとしていた博雅だったが、ふと、

「時に晴明」

「何だ」

「おまえ、小一条中納言さまのお屋敷に、盗人が入ったことを聞いておるか」

「うむ」

晴明は頷いた。

「何でも、先々帝より賜った稀代の重宝のみが盗まれておったそうだな」

「おお」

博雅は頷いて、

「唐渡りの大層貴重な玉(ぎょく)の置物なのだ」

「中納言さまには、大層お困りであろうな」

「その通りだよ」

小一条中納言家では、皇室よりの賜り物をみすみす盗まれたと知れては、外聞が悪いし、帝の不興を蒙るかもしれず、内密に探索を進めていた。

が、一向に埒が開かない。

そうこうしているうちに、噂が世間に広まってしまった。

「おれは、件(くだん)の宝物を、一度中納言さまのお屋敷で見せて頂いたことがあるのだが」

博雅は、盃を傾けて一口飲んでから、

「碧色の玉に、愛らしい小鳥の姿を刻んだ、それは見事な細工の物であったよ」

心配そうに眉を顰める。

「美しい品であったからなあ。早く見つかればよいのだが」

「そうだな」

晴明は、相変わらず気がないのだかあるのだか、判らないような顔で相槌を打った。



次の夜。

冴え冴えとした望月の色に誘われて、博雅はふらりと笛を手に彷徨い出た。

堀川の畔をゆるゆると歩きながら笛を奏でる。

川面に映ってほろほろと砕ける月の光が、その妙なる音色に震えているかのようであった。

ややあって、

ふと、博雅は、自らの音に和す笛があるのに気付いた。

笛を奏でながらそっと耳を傾けると、技としては未熟であるが、素直でよい音である。

その音の方へ歩いてゆくと、堀川に掛かった橋の袂に、ほっそりとした人影が立っていた。

見ると、淡い萌黄色の水干を纏った、十二、三才程の男童である。

月の光の下で、龍笛を唇に当てた白い顔は、すっきりと鼻筋の通った、清楚で品のある面差しである。

博雅は、そこで足を止め、しばらくこの童子の笛を和していたが、やがて一曲が終わると、童子は笛を唇から放し、丁寧に礼をした。

「このような拙き技(て)にて、殿さまのお遊びをお邪魔致しましたことをお許し下さい」

年の割には、しっかりした童のようである。

「いやいや」

博雅は頭(かぶり)を振った。

「実に、素直でのびやかな、よい笛の音であった。弛まず稽古をすれば、素晴らしい名手となるであろう」

「そうですか」

童子は、嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。

「そなた、名は何という」

「はい、ひすい、と申します」

「では、ひすい、いま一度・・・」

再び、二つの笛の音が、堀川の川面を漂っていった。



それから五日経った夜。

博雅は、再び件の橋の袂に立っていた。

あの晩、ひすいは目を輝かせて、どうか博雅に笛の手解きをして欲しい、と熱心にねだったのだ。

「では、我が屋敷に・・・」

との博雅の招きには、故あって応じられぬ、と言って、自分の住まいでは余りにむさ苦しく、博雅を招くわけにはゆかぬ。

だから、五日に一度、夜、この橋の袂で会うては頂けまいか、と言うのであった。

博雅は快く承知した。

そうして、約束通り、この橋へやって来たのである。

少し待っていると、橋の反対側から、人影がこちらへ向かってくる。

「あれか」

と思って見ると、どうも二人連れのようである。

一人はひすい、いま一人は被衣(かつぎ)を被った女であった。

「お待たせ致しました、博雅さま」

橋を渡り終えると、ひすいはまた丁寧に博雅に頭を下げた。

「そちらの方は・・・」

博雅が問うと、ひすいは、

「我が母でございます」

と答えた。

「そなたの母ぎみか・・・」

すると、女はそっと被衣を掲げて、月の光に顔を晒した。

その顔を見た博雅は、思わず、

「あ!」

と声を上げた。



それから、一と月が過ぎた。

日が西の山の端にかかる頃、その西陽に向かって二条大路を、一台の牛車が進んでいた。

牛を引くのは、目元の涼やかな水干姿の若い女である。

車中には、晴明が一人座していた。

白い狩衣の袖に通した腕を、胸の前で組み、じっと目を伏せている。

晴明は、つい先程まで、小一条中納言、藤原師尹の屋敷に呼ばれていたところであった。

宝の玉器が、何者かに盗まれた件である。

「玉器が失せた日の夜、我が邸宅では宴を催しておったのだ」

師尹の兄、右大臣藤原師輔など高位の公達が数多く招かれていて、師尹は、彼らの求めに応じ、件の玉器を披露した。

重宝であるので、仕えている者たちなどには任せず、自らの手で蔵から出し、また蔵へと仕舞ったのである。

「その晩は、蔵の鍵もわしが身に着けておった」

いつもは家司が管理しているので、宴が引け、朝になってから、鍵を家司に返そうとして、いま一度蔵の中を改めたところ、

「件の品だけ無くなっていたのですね」

「うむ」

「中納言さまがお寝みになっている間に、何者かが鍵を抜き取った、ということは・・・」

「それはあるまい」

師尹はきっぱりと否定した。

宴は夜通し続けられていて、師尹が酒に酔って少し御簾の内で休んだこともあったが、そこに出入りする者があれば人目に付く。

「蔵の鍵や戸を壊して無理に押し入ったという形跡は、まるでない。これはもう、人ならぬ身の仕業としか思えぬ」

話を聞いて晴明は考え込んだ。問題の蔵も見せてもらった。

何か気になるようなことはなかったか、と問うと、

「そう言えば」

師尹は思い出して言った。

「玉器が失せた日の前日、屋敷におかしな老人が訪ねてきた」

「老人?」

晴明は眉を顰めた。

老人はふらりと屋敷に現れ、下働きの女に、

「師尹に、宝の玉器が無事であるか、聞いてみろ」

と告げた、と言う。

知らせを受けて、家司が慌てて蔵を見に行くと、その時には玉器は無事であった。

しかし、気になった師尹は、自ら出て行って老人に会おうとした。

が、老人は玉器は無事であったと家人から聞くと、頷いてふらりと立ち去ってしまった後であった。

「その老人は、どのような風体でしたか」

晴明が問うと、思った通り、髪も髯も伸び放題、ぼろぼろの水干を纏った汚らしい老人であったと言う。

晴明は、とりあえず師尹には、

「出来る限り手を尽くしてみましょう」

とだけ告げて、屋敷を辞し、その足で、かの老人―蘆屋道満の棲む西ノ京へと向かっているのである。

実のところ、晴明はかなり不機嫌であった。

ここのところ、博雅の訪れが間遠なのである。

最後に屋敷を訪れたのは、十日ほど前であったか。

その前は、二十日近く顔を見せなかった。

無沙汰をして済まぬ、とかいった文は、折々に届けられるので、晴明も式を放って様子を探るとか、とやかく穿鑿するというような無粋な真似は避けていた。

しかし、十日前に来た時も、何やら歯切れが悪く、上の空といった態であった。

―おれに相談できぬような困りごとを抱えておるのだろうか。

それが何なのか気になるし、心配にもなる。

また、もし昨日あたり博雅が屋敷を訪れていたら、この日も同行させたのに、と思うと、ひどく面白くない心持ちになる。

中納言の玉器など二の次にしたい、といったところであった。

そうこうするうちに、西ノ京に入った牛車は、とあるあばら家の前で、ガタリと止まった。


続く


てとらさまの出直し10000ヒットキリリクでございます。

何とキリリクなのに連載になってしまいました。(汗汗)

てとらさま、まだ何とも話が動きませんが、気を長くしてお待ち下さいませ。(滝汗)



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