月は、かなり西に傾いていた。

その光の下を、ほとほとと牛車が進んでいた。

牛を引くのは、美しい女の姿の式である。

「あの太刀に封じられていたのは、あくまで力そのものであったのさ」

晴明が博雅に説いて聞かせている。

「力そのもの?」

「力を動かさんとする意志が切り離されていたのだ。・・・先程、俊平どのに護符の人形を当てた時、それに気付いたのさ」

「さっぱりわからん」

「つまりよ、牛を車を動かす力と考えれば、あの太刀に封じられていたのは牛だ」

「・・・」

「だが、牛に車を牽くようにさせるには牛飼い童が必要であろう。・・・あの太刀に封じられていたのは、牛飼い童のおらぬ牛のようなものなのさ」

博雅は、余り腑に落ちぬ様子で、

「・・・では、その牛飼い童はどこへ行ったのだ」

「だから、それが姫に憑いておるものだ。・・・恐らくは、武蔵国で既にとり憑いていたものであろう」

「そう言えば・・・」

黙然と二人のやり取りを聞いていた俊平が、ふと口を開いた。

「氷川社の宝刀を貰い受け、都へ持参するよう勧めたのは亮子でした」

晴明は俊平を見やって、頷いた。

「姫にとり憑いたものが、太刀を武蔵国から持ち出させようとしたのでしょう」

「一体何なのだ、亮子どのに憑いておるもの、とは・・・」

博雅が問うと、

「それは御本人に聞いてみぬことには、判らぬよ」

晴明ははぐらかすように答えた。

その時、博雅はふと思いついて、俊平の方を見やった。

「武蔵守どの、実は・・・」

と、亮子と話をしたことを率直に打ち明けた。

そして、亮子が俊平と添うたことを悔いていると語ったことは注意深く伏せた上で、氷川社の神職の女(むすめ)とのことを問い糾した。

すると、俊平は唖然とした顔になった。

「亮子がそのようなことを語っていたのですか?」

「はい」

「まさか、そのような・・・真に亮子が、私が他家に婿入りするなどと・・・」

「確かにそう仰せられておられましたが・・・」

「ああ、いや、しかし・・・まさか・・・いや、やはり、亮子はまだ中将さまのことを・・・」

俊平はひどく取り乱した。

博雅は困惑したが、晴明は落ち着いた声で宥めた。

「落ち着きなさいませ、武蔵守どの。今のあの方は亮子さまであって、亮子さまでないのですぞ」

「あ・・・」

俊平は脱力した。

「真のことではないのですか?」

博雅が問うと、俊平は頷いた。

「そういう話も先方からあったことは事実です。しかし、亮子は高貴の生まれで、気位も高い。私の我儘で鄙暮らしをさせているのに、この上、正妻の座まで追うようなことなど・・・」

到底考えられぬ、と言う。

「そこで、将来、私と亮子との間で子が出来れば、その子と縁組させよう、と伝えました。・・・亮子もそれは承知している筈です」

先方は、帝の血を引く高貴な姫君の生した御子ならば、一族にも箔が付く、と大いに喜んだ。

「なるほど・・・」

ありもしない亮子の苦境を口にさせたのは、亮子に憑いている妖しに相違ない。

俊平と亮子の間は、とりあえず円満のようだ。

博雅は安堵したが、何やら拍子抜けしたような心持であった。

晴明は何も言わなかったが、何やら不快げに眉を引き攣らせていた。



巨椋池は、四神相応の朱雀、即ち都の南に広がる広大な池沼である。

東の山々の稜線にほんのりと紅の色が差し始めた頃、三人は池の畔に立っていた。

晴明が岸辺に立って、短く、

「青魚(あおな)」

と呼ぶと、池の浅いところに群生する蓮の葉の間から、ふうわりと青衣の女が立ち上がった。

「あの方はどちらにおられるのかね」

晴明が問うと、青魚は一礼して、水の上を滑るようにして寄って来て、岸に上がり、

「こちらでございます」

と、三人を先導して歩き始めた。

「おまえの式か?」

博雅が問うと、晴明は頷いた。

「密かに姫の後を追わせていたのだ。未申の方角へ向かったようだったから、恐らくここであろうと思ったのさ」

「方角だけで巨椋池だと判ったのか?」

「いや、かの妖しは水性であるからな。大きな水に惹かれると思うたまでよ。東へ向かえば、近江であろうと見当を付けたさ」

「何故水性と判った」

「先程龍身を取ったではないか」

「ああ・・・」

博雅は、俊平が光を放った時のことを思い出した。光は龍の姿と化して、天に昇ってゆこうとしたのだ。

「・・・龍ならば、本性は水であろう」

晴明が言った時、

どこからともなく、女のすすり泣くような声が聞こえた。

「―晴明」

「しっ」

三人が声のする方へ歩み寄って見ると、

「何故じゃ、何故我が力、太刀より解き放たれぬのじゃ・・・」

岸辺で女が地に伏して泣いていた。

女の前には、件の太刀が横たえられている。

「亮子・・・」

前へ出ようとした俊平を、晴明は制し、つかつかと歩み寄って太刀を拾い上げた。

「この太刀には、牛頭天王の名を以て強力な封印の呪法が施してございます。・・・最早武蔵国氷川社にあると同様に、あなたさまには如何ともすることも叶いませぬ」

亮子はきっとして顔を上げた。口が裂け、目の吊り上った妖魔の顔である。

「おのれ、小賢しい真似を・・・」

「あなたは誰です」

「我を誰かと問うか」

亮子は顔を歪めた。

「我が名を奪うたはそちら西国の者どもだと言うに。我が民を獣のように追い、狩り立て、我が名を辱め、貶めたは、そちらだと言うに・・・」

がっくりと項垂れて、

「それなのに、最早我には何の力もない・・・。滅ぼすべき西国の地にあって、かように非力な女の身に宿りおるとは・・・」

おおん

おおん

獣のような声を上げて泣き叫んだ。

晴明は静かな声で言った。

「もしや、あなたさまの名は、アラハバキ」

亮子は、ふっと泣くのを止めた。

吊り上った目が晴明を見やったかと思うと、優しい女の眼差しに変じた。

「そうだ、我が民が我を呼びし名は」

耳まで裂けた口が段々と小さくなってゆく。

「アラハバキ」

逆立っていた黒髪がはさり、と落ちる。

ゆらりと立ち上がった亮子の顔は、元の美しい顔に戻っていた。

その体から、ゆらゆらと陽炎のようなものが立ち上ってゆく。

亮子の虚ろに開いた目が閉ざされ、頭を少し仰け反らせたかと思うと、

「亮子!」

力を失って、くにゃりと倒れ込んだので、俊平が駆け寄って抱きかかえた。

亮子は朦朧としてはいるが、意識はあるようである。

晴明は、空を見上げてから、博雅に目を移した。

「博雅、笛を」

博雅は頷いて葉二を懐から取り出し、唇に当てた。

澄んだ音色が、明け初めた空へと立ち上ってゆく。

心にすうっと滲み込んで来るような、怒りや憎しみを洗い流してしまうような、そんな慈しみの籠もった音色であった。

俊平も亮子も、己の置かれていた常ならぬ状態を忘れ、陶然と聴き入った。

すると、中天で蟠っていた何かが、穏やかな白い光を放ちながら、何かの形を取り始めた。

いつしか、その光は、透き通るような姿の、白い龍と化し、雲の間をうねるようにして、茜色に輝く東の空へ向かって飛び去って行った。



続く




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