亮子と俊平は、都に滞在する間世話になる予定であったという、俊平の知り合いの屋敷に落ち着いた。

二人をそこへ送り届けた帰りの車中で、博雅は晴明に問い質した。

「アラハバキとは何なのだ、晴明」

「あの方がご自分で仰せられていたではないか」

「何だと」

「あの方はな、出雲人が東国へ移り住むより更に以前、帝の勢威が東国まで及ばぬ頃、かの地に住んでいた人々が奉っていた神なのだ。アラハバキ、とは神の名だ」

「何・・・」

「我らが言うところの、『蝦夷』の神、ということだ」

「その神が、亮子どのや武蔵守どのに憑いていたのか」

「もう少し正しく言うならば、西からやって来た者共に土地を追われ、時には命をも奪われた古き民の怨念や憎悪の念が寄り集まったもの、といったところかな」

「・・・」

「武蔵国が平定され、彼の地に移り住んだ出雲人たちは、土地を奪われた者たちの憎しみ、殺された者たちの怨みをさぞや恐れたであろう。彼らの神を封じる儀式を行うことによって、怨念も憎悪も封じようとしたのだ。出雲の雄き神、須佐之男命の名によってな。氷川社も、あの太刀も、そのための仕掛けなのさ」

それから、晴明はふうっと息をついて、

「だが、人の悪念というものは封じれば凝って更に悪しきものとなる。出雲人たちは、かの神の力のみを太刀に封じ、神そのものは広き水―恐らく見沼であろうな―に解き放ち、龍神の名を与えて祀ったのであろう。それが、何かの折りにか、六条宮の姫にとり憑いた―」

「先程、亮子どのは女房たちと見沼の畔で野遊びをしていたら、ふと気が遠くなった、というようなことを言うておられたな」

博雅は頷いた。

「そして、己の力を封じた太刀を、氷川社の結界の外に持ち出させ、武蔵守どのの身にとり憑かせて人斬りをさせていた、というわけだ」

「何故人斬りを・・・。我ら西国への復讐、ということか?」

「それもあるだろうが、封印を壊すためにあの太刀を血で穢そうとしたのであろうな」

「ふうん」

博雅は、ふと眉を顰めた。

「・・・しかし、東国の神は、何ゆえ亮子どのにあのような嘘を語らせたのであろう」

晴明は嫌な顔をした。

「あわよくば、亮子どのとおまえの寄りを戻し、おまえを通してあの男に近づこう、という魂胆ではなかったのかな」

「こら、また主上をあの男などと・・・」

博雅はいつものように晴明の口ぶりを咎めてから、

「主上に近づいて・・・主上を害し奉らんと?」

「いや、むしろ、政事(まつりごと)を握って東国を古えのように戻そうと考えたのかも知れん。・・・まあ、今となっては判らんがな」

「東国の古き民の怨み、というのはあれで浄められたのであろうか」

「判らん。判らんが、俊平どのにはあの太刀を武蔵国に持ち帰り、氷川社の神域にアラハバキの神を祀る祠を建て、古き民の無念を慰めるように、と伝えておいたよ。・・・それで何とかなるだろう」

「ふうん」

博雅は、白く透き通るような姿の龍が、暁の光を目指して飛び去っていった光景を思い起こし、ふうっとため息をついた。



それからまもなく、俊平は亮子を伴い、件の太刀を携えて東国へと旅立った。

「我が意思によらぬこととは言え、我が手により多くの人の命を故なく殺めましたこと、到底許されぬこととは思うておりませぬ。本来ならば出家をし、終生我が手が殺めた方々の菩提を弔うべきとは存知ますが、それでは、武蔵国に残してきた我が郎党、そして我が妻が寄る辺なき身となってしまいます」

俊平は、もう二度と都には足を踏み入れず、東国に根を張って生きてゆく積もりだ、と博雅に告げた。

「中将さまには、かつての我らの所業にも関らず、御心を尽くして頂き、何とお礼を申し上げたらよいか・・・。御恩は生涯忘れませぬ」

―勁(つよ)い男だ。

博雅は思った。

この男ならば、恐ろしい体験を乗り越え、亮子を守り抜き、東国で大成するであろう。

そして、旅立ちの前に、一度だけ博雅は御簾越しに亮子と二人だけで話をする折りを得た。

「あの折り、わたくしが博雅さまと添うておればよかった、と申し上げたのは、まるでわたくしの本心に反する、というわけでは御座いませんの」

「・・・」

「武蔵での鄙暮らしは殊の外辛く、夫はいつも忙しくしていて、一人で放っておかれることも多く・・・」

慣れてくれば、初めは野性味と映った俊平の無教養さ、粗雑さが鼻につく。そうなれば、博雅の優しさ、心配りの細やかさが懐かしく思われる。何より、

「博雅さまのお笛が恋しくて恋しくてなりませんでしたのよ」

御簾の向こうで、亮子は寂しげな笑みを浮かべた。

「巨椋池の畔で、四年ぶりに博雅さまのお笛を聴いた時には、本当に、心の底から後悔致しました」

四年前、亮子があのように愚かでなければ、今頃この笛は、しばしば自分のために奏でられていたのだ。

「亮子どの・・・」

「でも・・・」

亮子はそこで言葉を切った。少し言葉を選ぶようにして続けた。

「晴明どのから伺いました。・・・博雅さまは大層苦しい恋をなさった、と」

「・・・」

「相手のお方はそれは素晴らしいお方であったのだが、大層不幸な亡くなり方をされ、博雅さまはその方のことを未だ想い続けておられる、と・・・」

亮子は俯いた。

「今更わたくしの戻る場所など、なかったのですね」

「亮子どの、それは・・・」

「いいえ、博雅さま」

亮子は顔を上げた。

「わたくしなら大丈夫です」

その声にふと力が籠もった。

「つい昨日判ったのですけど、わたくし、身籠っておりますの」

「おお・・・」

博雅は目を見開いた。

「それは何という慶事・・・」

「有難うございます」

亮子は己の腹に手をやった。生まれてくる子は男児であっても女児であっても、ゆくゆくは武蔵の土豪に縁付く筈である。

「この子は菅原俊平の子。俊平が武蔵国に足場を築くのになくてはならぬ子です。わたくし、この子のために俊平の妻として武蔵の地で生を全うしようと思います」

「そう・・・ですか」

「博雅さま」

「何でしょう」

「今生のお別れに・・・是非お笛を・・・」

「はい」

博雅は頷いて葉二を取り出した。

やがて紡ぎ出された妙なる笛の音が辺りを満たすと、亮子は袖を目にあて、ひっそりとすすり泣いていた。



そうして、武蔵国へと旅立った亮子に、博雅は二度と逢うことはなかったのである。




「アラハバキ」というのは色々な意味で「危ない」神様なので、使うのは少し迷いました。東国の被征服民ネタって何か陳腐だし。

もともとは将門ネタとして考えていたので、『岩戸ノ姫鬼譚』で原作とネタ被りをしてしまってボツになりかかった話の一部なんです。

個人的には所謂「蝦夷」と呼ばれていた人々の文化には結構関心があるんですが、反権力、反中央の色のない本を探すのが難しいんですよねえ。

どなたかよい本があったらご教示下さいませ。



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