地面に突っ伏して倒れていた俊平が身動きをしたので、博雅は、太刀を手にしたまま傍へ寄って助け起こした。
すると、俊平は先程までの凶悪な形相が嘘のような呆けた顔で目を開いた。
「俊平どの・・・」
覗き込んだ博雅の顔を見上げると、すうっとその顔が引き攣った。
そして、ぱっとその場から飛び離れると、地面の上に平伏した。
「・・・では、武蔵守どのには、ご自分の為されていたことが全てお分かりになっていたのですね」
晴明が問うと、俊平は悄然として頷いた。
「私以外の何者かに、無理矢理手足を動かされ、操られているようで、どれほど私が抗おうと無駄でした」
肉の裂ける感触、骨が断たれる音、飛び散る血飛沫、断末魔の悲鳴、殺された者たちの顔・・・
「全て、この手、この目、この耳に焼き付いております」
俊平は顔を覆った。
博雅は、かけてやれる言葉も思いつかず、ただ、労わるように俊平の肩に手を置いた。
俊平は複雑な目をして博雅を見返した
「晴明、これからどうするのだ」
博雅が晴明に問いかけ、晴明がこれに答えるより先に、
「博雅さま・・・俊平さま」
声をかける女があった。
三人が見ると、いつの間にか傍へ寄ってきたのか、月の光を浴びて、壷装束の女がぼうと立っている。
そっと傘の縁を上げ、垂衣をかき分けると、俊平と博雅が同時に声を上げた。
「亮子・・・!」
「亮子どの」
亮子は垂衣の裾を肩にかけて顔を露わにし、軽く一礼した。
「申し訳ございませぬ、博雅さま。我が夫俊平の身が案じられ、ついついお屋敷を抜け出してしまいました」
ひどく落ち着き払った表情である。
「東山の方かと見当をつけて歩いて参りましたら、何やら妖しい光が見えましたゆえ、こちらに相違ない、と・・・」
俊平を見て、目を細める。
「見れば、我が夫は正気を取り戻した様子、博雅さまにもお怪我なく・・・」
美しい瞳を、博雅、晴明へと順に動かした。
「これもみな晴明どののお陰、さすがは名高き陰陽師・・・」
晴明に向かって深々と頭を垂れた。
晴明はこれに答えなかった。切れ長の目をすうっと細めている。亮子は再び博雅を見た。
「おお、それは件の太刀でございますね」
ゆっくりと歩み寄りながら、両手を差し伸べ、
「よく見せて頂けませぬか」
「・・・」
博雅は亮子の振舞にひどく違和感を覚えた。反射的に太刀を持った手を背に回そうとしたが、その瞬間、
「博雅!」
晴明が叫ぶのとほぼ同時に、
「その太刀をよこしゃあああ」
亮子が亮子のものとは思えぬような声を上げた。
美しい顔がみるみるうちに変じてゆく。
口が耳まで裂け、目尻は吊り上り、鼻がひしゃげ、傘が飛んで黒髪がゆらゆらと立ち上がった。
そして、人とは思えぬ素早さで博雅に飛び掛り、太刀を持った腕に噛み付いた。
「うわあああ」
堪らず博雅が太刀を取り落とすと、すぐに博雅を突き飛ばして太刀を拾い上げた。
そして、呆然と立ち尽くしていた俊平も、博雅を救おうと駆け寄ってきた晴明も強い力で跳ね飛ばし、風のように夜の闇の中へ消えた。
「あ、亮子・・・」
俊平が信じられぬ、という顔で地に座り込んだまま動かない。
「大丈夫か、博雅」
晴明は博雅の傷ついた腕を取った。
狩衣の袖の上から牙を立てたので、傷はそう深くない。
晴明は、その傷を腰に下げた竹筒の水で洗い、己れの単の袖を千切って、手際よく巻きつけた。
「おまえに太刀を預けたままにしておくのではなかった。すまぬ」
「それはよいのだが、・・・追わなくてよいのか?」
晴明が沈痛な表情ながらも、落ち着いた様子で己れの傷の手当てをしているので、博雅は不安げに問うた。
「行く先は検討がついている。・・・大丈夫だ」
「どういうことなのだ。・・・武蔵守どのに憑いていた妖しが亮子どのに憑いてしまった、ということか」
「厳密に言うと、それは違う」
晴明は立ち上がった。
「詳しいことは、車の中で話そう。・・・武蔵守どのは如何なされますかな」
俊平ははっとして顔を上げた。
「ま、参ります。・・・亮子、亮子は一体どこへ・・・」
「どこへゆくのだ、晴明」
俊平を助け起こしてから、歩き出した晴明の後を追って、博雅は訊ねた。
晴明はちらりと振り返ると、一言言った。
「巨椋池さ」