一旦屋敷に戻った博雅は、北の対にいる亮子のもとへ足を運んだ。
亮子が臥せっている間の廂に座し、御簾越しに晴明の話を伝える。
先だって、亮子の話を聞いた折りも御簾越しであったので、博雅は一度も亮子の姿を見ていない。
亮子は袿を肩にかけ、床の上に起き上がって話を聞いているようだ。
「晴明どのが術を施して、今日か明日中には俊平どのをお救い出来ると存じます。・・・どうか、お心強くおいで下さい」
すると、亮子はか細い声で呼びかけてきた。
「博雅さま」
「何でしょう」
「四年前、わたくしは博雅さまにひどい仕打ちを致しました。・・・それなのに、このように押しかけてきたりなどして、さぞ厚かましい女、とお思いでしょう」
博雅は労わるように答えた。
「四年前のことは最早過ぎたこと。今は亮子どのは大変なご危難に遭われているのですから、手をお貸しするのは当然のことです」
亮子は項垂れた。
「わたくし、東国では決して幸せではございませんでした―」
都のやんごとなき姫君が、東国の鄙暮らしに馴染めぬのは当然のことであるが、その上、更に、
「夫は、一応わたくしを北の方として遇してくれましたが、別の女のもとへもしばしば通うているようなのです」
氷川社の神職を務める、土地の有力豪族の女(むすめ)であった。
「夫は、その族(やから)の婿となり、ひいては武蔵国に広大な所領を手にせんと目論んでおるのでございます」
「婿に、ですと?」
博雅は唖然とした。周囲の反対を押し切り、宮家の姫を半ば拉し去るようにして我が妻をしておきながら、東国の土豪の女婿に、という神経は、博雅の理解を超えていた。
「父も母も儚くなったと聞いた時は、心の底から後悔致しました。都を出るのではなかった、博雅さまと添うておればよかった、と・・・」
亮子は袖を目にあて、さめざめと泣き出した。
一方、博雅は困惑していた。
博雅は、亮子を不憫だと思っている。力になってやりたいと心の底から思っている。
だが、もし、亮子から俊平とは別れるから、また寄りを戻してくれ、と懇願されたとしたら。
昔と同じ気持ちを、亮子に対して持つことは、到底出来ぬ、としか言い様がない。
「それは・・・真にお気の毒です・・・」
博雅は口ごもった。
気まずい沈黙が下りた。
亮子はなおもすすり泣いている。
博雅は、これといってかけてやれる言葉も思いつかず、仕方なく、
「とりあえず、今は武蔵守どのにとり憑いた妖しを祓うのが先決。ことが収まりましたら、わたくしが武蔵守どのとお話を致しましょう」
と言うと、亮子はやっと涙を拭いて、
「このような折りに詮無いことを申しました。お許し下さい」
と言ったので、博雅は少しほっとして、腰を上げた。
「では、わたくしはこれで・・・」
すると、
「お待ち下さい!」
亮子が急に声を上げ、立ち上がると、自ら御簾を掲げて姿を露わにした。
ふうわりと木犀の香に似た香りが辺りに広がる。
思わず博雅は、まともに亮子の顔を見た。
青白くやつれており、鄙での暮らしのせいもあってか、四年前の艶麗さとは比ぶべくもないが、それでも十分に美しかった。
言葉もなく、二人は見詰め合った。
亮子の美しい瞳に涙が浮かんでいる。
「博雅さま・・・」
桜色の唇が開いた。
その刹那。
博雅の脳裏を過ぎったのは、
夜の片隅に蹲る、琵琶を抱いた生成りの姿と、
何故か不機嫌に黙り込む男の白い顔であった。
博雅は、黙したまま一礼すると、踵を返して、歩み去った。
渡殿にさしかかるところで、一度御簾の方を振り返った。
亮子は、御簾の内に戻っていて、こちらに向かって深々と頭を下げていた。