翌日、博雅が晴明を訪ねると、晴明は奥の間で書物に囲まれて座していた。
勧められるままに、差し向かいで腰を下ろす。
おもむろに晴明が問うた。
「博雅、おまえ、武蔵国の氷川社の祭神を知っておるか」
「知らぬ」
「須佐之男命だ」
「ほう」
博雅は目を丸くした。
「何故須佐之男命を祀る社が東国にあるのだ」
「知らぬのか?その昔、武蔵国一帯を切り拓いたのは、出雲の地から移り住んだ者たちなのだ」
「そうなのか?」
晴明は、手近にあった書付のようなものをくるくると開いて、
「社伝によると、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造に任じられた折り、この社を篤く尊崇した、とある。氷川とは、出雲国の斐川のことで、出雲の斐川にあった出雲斐伊社(※1)から須佐之男命を勧請して建てられたのが、氷川社なのだよ」
「ほう」
博雅は床に広げられた書付を覗き込む。
絵地図のようだ。
「武蔵国には見沼という大きな沼があるのだが、氷川社はその畔に建てられているのだ」
晴明は扇で図の中央に大きく描かれた沼を示した。示したところに「氷川社」の文字がある。
「そこから沼の畔に沿って一里程東南には、大己貴命を祀った社、更に東南には、須佐之男命の妃、櫛稲田姫命を祀った社(※2)がある。この三社を併せたのが、氷川社なのだ」
「ふうん」
博雅は、晴明の扇の先を目で追って、感心したように頷いたが、
「で、それが、このたびの一件とどう関りがあるのだ」
「まあ、聞けよ。おそらく、件の太刀は、武蔵国に移り住んだ出雲人(びと)が、かの地に存在した何らかの力を須佐之男命の名を以てこれに封じ、社に納めていたものに違いない」
「それでは」
やっと博雅にも話が呑みこめてきた。
「俊平どのが件の太刀を社から持ち出してしまったために、封印が解けてしまったということか」
「そうだ」
晴明は頷いた。
「正確には武蔵国から持ち出してしまったため、だがな」
「どういうことだ」
「これを見ろよ」
晴明は別の書付を取り上げ、先程の見沼の絵図の上に、さらさらと広げた。武蔵国の絵図である。
「問題の氷川社は、この図ではここだ」
晴明は、扇の先で地図の一点を示した。確かに、「氷川社」という文字がある。
「武蔵には、この他にもここに中氷川社(※3)というのがある」
扇の先が地図の南西の方角に向かって動き、一点で止まった。
「更にここ」
また南西に動く。
「奥氷川社(※4)というのがある」
晴明は、扇を置いて筆を執ると、
「この三つの社を結ぶと」
筆先で図の上に線を描いた。
「一本の真っ直ぐな線となる」
「おお」
博雅は目を見張った。
「更にこの線を中心に、このように円を描くと」
晴明が先の線を直径とした円を、すらりと描いてみせると、博雅は唸った。
「武蔵国の南半分がすっぽり入ってしまうな」
「つまり、氷川社というのは、須佐之男命の名を以て武蔵国を守るために、出雲人が作り上げた仕掛け、いわば結界なのだ。太刀を社から持ち出しても、この結界の内にある間は封印は解けぬ。・・・だが」
「武蔵を出て遠く離れてしまえば・・・」
「封印は容易く解けてしまうのさ」
「なるほど」
博雅は頷いた。そして、
「では、如何にすれば俊平どのを救うことができるのだ」
と問うた。
「また須佐之男命のお名を借りねばなるまい」
「どうやって?」
「都にもあるであろう、須佐之男命が鎮座される社が」
「どこだ、それは」
「知らぬのか?牛頭天王は須佐之男命の化身と言われているのだぞ」
「牛頭・・・ああ」
博雅は目を見開いた。
「祇園社か・・・!」
久々に、註がずらずら並んだ薀蓄小説になってしまいやした。(滝汗)
氷川神社、と言えば、埼玉県中南部〜東京都西部の住人には、「各駅ごとにあるんじゃないか」ってくらいおなじみの神社なのですが、
この地域にざっと200社以上が集中しているのに、その他の地域には殆どない(北海道に一つあるだけだそうで)、という不思議なお社です。
その理由というか、由来というのは、作中で晴明が語っている通りのことが言われているようです。
総本社は、現埼玉県さいたま市(旧大宮市)の大宮氷川神社。武蔵国一之宮で、この話に出てくる氷川社も、この神社のことを指しています。
(註)
※1 大宮氷川神社に勧請されたという出雲斐伊神社も、現在の島根県出雲地方で存続しているそうです。
※2 大己貴命(大国主命)を祀った神社(中山神社)と櫛稲田姫命を祀った神社(氷川女体神社)もさいたま市内に現存します。今は別々の神社ですが、明治以前は三つ合わせて氷川神社と称していたそうです。
※3 中氷川神社…現埼玉県所沢市。
※4 奥氷川神社…現東京都奥多摩町。
ちなみに、大宮氷川神社と中氷川神社、奥氷川神社が一直線上にある(昔の絵地図でそんなことがわかるのか、とかは突っ込みご容赦)、というのは、結構有名な指摘です。大宮が前社、所沢が中社、奥多摩が奥社の関係ではないかとも言われているようですが、この直線を直径にした円を描くと、武蔵国の南半分がすっぽり入る、というのは、私が勝手に思いついたことです。重ね重ね、突っ込みはご容赦下さいまし。