翌朝。
かなり日が高くなってから屋敷に戻った博雅を、乳母の萩生が複雑な表情で待ち受けていた。
「昨夜、殿がお出かけ手になられた後、訪ねてこられた方が・・・」
「客があったのか?」
博雅は少し慌てたが、萩生は、
「今、北の対でお寝みになっておいでなのですが・・・その・・・」
と、ひどく言い難そうに、
「亡き六条宮の姫ぎみが・・・」
「何?」
博雅は呆気にとられた。
「亮子どのが訪ねてこられた、と?」
「はい」
萩生は頷いた。
「それも、只ならぬ有様で・・・」
先夜のこと、夜更けに頻りに門を叩く音がするので、もしや主が急に帰宅したのか、と思い、舎人が門を開けたところ、女が一人、転げ込むようにして、門の内へ入ってきた。
門を開けた舎人は、咄嗟に物乞いの類かと思ったが、よく見ると、女は薄汚れて傷だらけではあるものの、身なりは高い身分のそれである。
身に着けている物は泥だらけで、あちこち破れているが、よい絹で作られた袿であると知れた。
その上、女は自分は六条宮の女(むすめ)であると名乗った。
知らせを聞いて駆けつけた萩生は、女の汚れた顔をまじまじと見つめ、はっと気付いて声を上げた。
「まあ、香の君さま!」
とにかく衰弱が激しく、怪我もしているようなので、すぐに北の対に運んで介抱したのである。
「今朝方、薬師を呼びましたら、お怪我は擦り傷程度で、もう十分な手当ても施してあるので、お命に関ることはない、とのことでした。ただ、ひどくお疲れのようなので、しばらく休ませて差し上げるように、と・・・」
「そうか・・・」
博雅は困惑した。
六条宮家では、宮が亡くなってまもなく、北の方も後を追うようにしてはかなくなり、仕えていた者たちもみな離散して、屋敷は人手に渡っている。
この都で、頼れるのは博雅しかいない、というのは判るのだが。
「何があったのでしょう・・・」
俊平に捨てられたのか。
「・・・まあ、御本人から話を聞くより他はあるまいよ」
博雅は、こう言うより外なかった。
「・・・というわけでな、そのうち、亮子どのがお目覚めになったので、話を聞いたのだ。そうすると・・・」
博雅は、横目でそろりと晴明を見やった。
晴明は、柱に背中を預けて、じっと目を閉じている。
いつもと変わらぬ様子に見えるが、何となく不機嫌そうにも見える。
「昨夜、おまえと話していた例の東山の人斬りの件を関りがあったのだよ」
そこで博雅は言葉を切った。
晴明が何も言わないのを、話を続けてよい、という意に取る。
「それは、こういうわけなのだよ、晴明―」
武蔵の国司を務めていた菅原俊平は、任期の四年が過ぎたので、一旦都に帰ることになった。
帰任するに当たって、俊平は都の然るべき筋に何か貢物を、と思いついた。
実は、俊平は武蔵の有力な土豪と親交を結んでおり、ゆくゆくは武蔵に根を張って、勢力を築こうという腹積もりであったのだ。
熱心な運動の結果、武蔵の国司には重任されることが決まっていたので、これに尽力してくれたと目される筋への礼物を持って行こうというわけである。
そこで、件の土豪が代々神職を務める、武蔵国一宮、氷川社に納められた黄金作りの太刀を手に入れることができた。
それは、坂上田村麻呂が都より所持してきたものとされ、将門の大乱の折に、これに調伏を祈ったところ、霊験あらかたであったと言われている。
俊平は、この太刀を美しい錦の袋に包んで、他の荷と共に
車に積み込み、亮子と、数人の舎人と女房たちを伴って、都へ向かって旅立った。
旅は、これといって障りもなく進み、やがて一行は近江までやって来た。
逢坂山を越えようと、その山中に入ったところ、
車に積まれた荷が、不意にガタガタと動いた。
荷を纏めていた綱がぷつん、ぷつんと切れたかと思うと、他の荷を跳ね飛ばして、太刀を納めた袋が飛び出して来た。
太刀は、音に気付いて振り返った馬上の俊平に向かって飛んでゆき、その腕の中に納まった。
太刀を手にした俊平は、黙って馬から下りた。
徒歩で従っていた舎人や女房たち、牛車の中から簾を上げて様子を見ていた亮子が、不審そうに見守る中、錦の袋から太刀を取り出し、鞘を払った。
その時の俊平の顔は、最早俊平ではなかった。
「恐ろしい、鬼のような形相でございました」
思い出してもぞっとするのか、亮子は顔を覆って震えた。
俊平は、やおら刀を振りかざすと、あっという間に馬の轡を持っていた馬子を斬り捨てた。
馬は驚いて大きく跳ねると、そのまま山中に駆け去ってしまう。
俊平は、そのまま血に濡れた刀を振るって、驚き、逃げ惑う舎人や女房たち、牛飼い童を次々と斬り殺してゆく。
亮子は恐ろしさの余り車の中で身を竦めていたが、血刀をぶら下げた俊平が車に乗り込んでこようとする前に、怯えた牛が、車に繋がれたまま、突然走り出した。
車に手をかけていた俊平は跳ね飛ばされ、牛車は牛に引かれたまま、猛然と山中に走り込んだ。
その後のことは、亮子もよく覚えていない、と言う。そのうち、車が牛から外れて横転し、外に投げ出されるかしたのであろう。
気がつくと、親切な炭焼きの老夫婦に助けられていた。
怪我の手当てなどをしてもらうと、老人の案内で山を越え、慣れぬ徒歩で都に戻ってきた、と言う。
「恐らく、東山の人斬りは俊平どのに違いない。武蔵国から持ち帰った太刀に、何ぞよくない物が憑いておって、これに取り込まれてしまったのだろう」
「なるほど」
晴明は、さすがに興味を引かれたと見え、もう目を伏せてはいなかった。
「多分おまえの言う通りであろうよ。これで打つ手が見えた」
「どのような手だ」
博雅が問うと、
「とりあえず、今宵は出かけずに済んだ、というわけさ」
晴明は言い、
「これから少し調べ物がある。済まぬが・・・」
「おお、今日はもう帰ろう」
「明日の昼頃、また来てくれぬか」
「判った」
博雅は、いろいろと気になることがあったのだが、こういう時の晴明に幾ら訊いても、勿体振って何も教えてくれないのは判っているので、そのまま大人しく屋敷に引き上げた。