兇刃
馥郁とした甘い香りが、庭の空気を満たしている。
木犀の木が黄色の花を咲かせているのである。
そうして、
その花の精である薫が、簀子に座した晴明と博雅に、酌をしている。
ほろほろとそれぞれの心の赴くままに語り合っていたのが、ふと訪れた沈黙の後、博雅がぽつりと言った。
「なあ、晴明」
「何だ」
「いつぞや、初めて薫が姿を現した時、おれがおまえに言ったことを覚えておるか」
「ああ」
晴明は頷いた。
「確か、このような香りを嗅ぐと、人は好もしい女人のことを想い出す、と言うたのだな」
「そうだ」
「それで、おれが、好もしい女人というのがおるのか、と問うたら、おまえは、おれのことではない、と取り繕うたのであったな」
「よく覚えておるな」
博雅は苦笑した。
「あの時にはああ言うたがな、実は・・・」
「誰ぞ、女の方のことであったのか」
「おまえも知っている女(ひと)だ。・・・そら、亡き六条宮の姫ぎみだよ」
「ああ」
晴明は形のよい眉を顰(しか)めた。ひどく不快なことを思い出した、という顔だ。
「香(かおり)の君か」
「亮子(あきこ)どのだ」
「では、香の君の香とは、この木犀の花のような香りであった、ということなのだな」
「そうだ」
亡き六条宮の姫は、名を亮子といい、姿が美しい上に生まれながらによき香を放つというので、香の君と呼ばれていた。
実は、この香の君、四年ほど前まで、博雅が通っていた女性なのである。
博雅の亡き父と六条宮はごく親しい仲で、かねがね二人の子を添わせようという話になっていたのが縁で、いつの頃からか、博雅は六条宮邸に通うようになった。
実のところ、博雅は堀川橋で出会った芍薬の姫のことを忘れ難く想っていたのだが、かの姫と会わなくなってから幾年かが過ぎており、六条宮からのたっての申し入れに、殊更否という理由もなかったのである。
通うてみれば、亮子は美しいし、気立てもよい。肌から立ち上る香には、何とも言えず、心魅かれてしまう。
亮子も、博雅の楽の才や人柄のよさに心を寄せているようで、このまま二人の仲はうまくゆくであろう、と想われた。
ところが、
ひょんなことから、亮子には、もう一人通う男があったことが知れてしまった。
名は菅原俊平。受領の子で、本来ならば、やんごとなき宮家の姫に通うどころか、姿を垣間見ることすら叶わぬ身分である筈であった。
それが、ある時、葵祭を見物に来ていた亮子の車の御簾が強い風に煽られたことがあった。
この時、俊平は、漂ってきた芳しい香りに魅かれ、ついその姿を覗き見してしまったのである。
そして、それ以来、亮子に恋い焦がれてしまった。
何とか伝手を辿り、六条宮邸に仕える女房の一人に、高価な贈り物を幾度も贈って歓心を買った。
そうして、遂に、ある夜、その女房の手引きで、亮子の寝間に忍び込んだ。
亮子は、最初は俊平の強引な求愛を拒みきれずに関係を結んだが、やがて、俊平の飾らない、剥き出しの情熱にほだされるようになり、俊平に求められるままに、肌を許していたのである。
ことが明るみに出た時、俊平はまるで悪びれもせず、
「この春には、武蔵の国司に任ぜられるので、亮子も伴ってゆきたい」
などと、ぬけぬけと言い出す始末であった。
博雅は困惑し、六条宮は怒り狂った。
「下衆の分際で、分も弁えぬ不逞の輩め」
と、俊平を痛罵し、今後娘に近づくことはならぬ、と申し渡した。
すると、俊平は、武蔵国へ赴任する日の前夜、密かに亮子に文を送ってこれを屋敷の外に誘い出し、共に東国へ下っていってしまったのである。
父の六条宮は、心痛の余り病を発した。見舞いに訪れた博雅に、頻りにすまぬと詫びた。
そのまま、本復することなく亡くなってしまった。
博雅も、その時はもちろん悲しく、そして悔しかった。一年ほどたって東国から届いた亮子の文も、開ける気にもなれず、文机の上に置きっ放しにしているうちに、家人が燃やしてしまった。博雅本人よりも、博雅に仕える者たちの憤りの方が激しかったふしはある。
しかし、それからまもなく、博雅は、堀川橋の芍薬の女―徳子―との心痛む再会とその悲惨な最期に直面することになった。
徳子との痛切な思い出は、博雅にとっての亮子の存在をすっかり遠いものにしてしまったのである。
それでも、
「この花の香を嗅ぐとな、思い出すのだよ。そして思うのだ。亮子どのは如何しておられるのだろう、とな」
博雅は言い、ぐいと酒を煽った。薫が空いた盃に酒を注ぐ。
「ふん」
晴明は、珍しく不快げな様子を露わにしている。
「都で生まれ育ったやんごとない姫ぎみが、東国の鄙びた暮らしに馴染んでおられるとは思えぬな。・・・大方、おまえと別れたことを悔いておるのではないか」
晴明らしくもなく、内心の不機嫌さが剥き出しになっている口調に、博雅は当惑した。
「そうだろうか」
「そうに決まっておる」
晴明は素っ気無く言い放った。
何とはなしに、この話題は剣呑だと感じた博雅は、話を変えた。
「近頃、東山の辺りに人斬りが出るそうだな」
「うむ」
話が亮子のことから離れると、晴明はいつもの涼しげな表情に戻った。
「先夜も行商人の一行が、一人残らず殺されたそうだな」
「そうして、やはり荷にも金にも全く手がつけられておらなかったそうだよ」
近江から逢坂山を越え、山科を抜けて京へ入る、その道筋に、朝になると無残な斬死体が転がっているようになったのは、七日程前からのことであった。
当初は盗賊の仕業かと思われたが、亡骸は無残に斬り刻まれているものの、身に着けている物や荷物には全く手が付けられていない。
高価な絹の荷を負うた商人が首を刎ねられているのに、荷物には手付かずであったりする。
そこで、夜の間にその道筋を通る必要がある者は、腕の立つ勇徒を雇い入れたり、大人数で移動するようにしたが、それが一人残らず皆殺しになっていたりする。
「一体何者の仕業なのであろう」
博雅は眉を顰(ひそ)めた。
「人を喰らう鬼の所業なのではないか」
晴明はかぶりを振った。
「亡骸の傷は、鋭い刃物によるものであると聞いた。人の仕業に間違いない」
「まるで人を殺めることそのものが目的であるかのようではないか」
博雅が、何かにとり憑かれておるのかなあ、と言うと、晴明は頷いた。
「さる筋からも、何かの妖しが人に憑いて、かような所業をさせることがあるのか、と聞いて寄越してきている」
「おまえの領分、というわけか」
晴明は月を見上げた。望月に少し足りないくらいの月がぽかりと浮かんでいる。
「明日の夜も月が明るいようなら、件の場所へ行って、確かめてみようと思うのだ」
「危なくはないか」
博雅は反対した。本当に妖しの類ならば、晴明は難なく退けるであろう。むしろ、気が触れたかどうにかした人の仕業であった時の方が危うい。
「おれが自分でのこのこ出てゆくわけではないから、危ういことはないよ」
式を用いて誘き出すのだ、と言う。
「おまえもゆくか」
「そうだなあ・・・」
「ゆかぬか」
「いや」
「ゆくか」
「ううむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
しばらく、晴明の女性関係ネタが幾つか続いたので、今回は、博雅の過去の恋愛話を取り上げてみました。
同人的には「博雅は初心で晩生」がデフォルトになっているような印象があるし、岡野版は完全にそうだし(最近は知らんけど)、原作も初期は「女からつれなくされることはあっても、こっちがつれなくしたことはない」という発言があったりしますが。
ただ、原作では、博雅が武士でなくなる辺り、『付喪神の巻』辺りからは、当時の貴族の常として人並みに恋愛経験はある、という前提になっているような気がするのです。他の貴族連中と比べて、随分誠実で純情だということにはなると思うのですが。
個人的にも、博雅は高貴な身分だし、性格もいいし、何より楽に秀でている(現代でも楽器がうまく弾ける奴はモテる)から、結構女性に憧れられていたのでは、と思うので、うちの博雅は、振った振られたという経験が人並みにはある、という設定です。もちろん、あくまで誠実で、幾つになっても純情くんなので、二股とか浮気とかは絶対にしません。(あたりまへだ)
あと、やんごとない姫君が身分低い男と結ばれて東国へ下る、というのは、『更級日記』に登場する、武蔵の衛士の男と姫宮の物語から着想しました。