「おい、博雅」

 突然、耳元で囁かれ、博雅は驚いて目を醒ました。

「声を出すなよ。おれだ」

 甲高いが、消え入りそうに小さな声だ。

―晴明・・・!

 博雅が床の上に起き上がって辺りを見回すと、枕の横に小さな萱鼠がちょこんと座っていた。

 博雅と目が合うと、萱鼠はすっと後足で立ち上がった。

「おれの言う通りにすれば、ここから出られる。まず身支度をしろ」

 博雅は声を出さずにこくこくと頷き、手早く直衣を身に着けた。

 すると、萱鼠はちょろちょろと博雅の膝から腕をつたって肩に乗った。

 そして、博雅の耳元に小さな前足と尖った口を寄せ、

「御簾の方に向かって右側の壁があるだろう」

 博雅は立ち上がって言われた方の壁と向かい合った。

「そのまま壁に向かって進んでゆけ」

「・・・!?」

 博雅が何か言いたそうに口を開こうとすると、

「しっ」

とこれを制し、

「おれを信じろ」

 博雅は黙って頷くと、そのまま壁に向かって足を踏み出した。

 目の前に壁が迫ってきたと思った途端、

 博雅は庭に面した簀子に立っていた。

 思わず振り返ると、そこには壁などなく、御簾と几帳で三方を囲まれた中に、先程まで横になっていた臥床が整えられているのが見えた。

 目をぱちくりさせていると、肩のねずみが、

「おまえは呪によってありもしない壁を見せられていたのさ」

 そして、博雅がまた何か言おうとするので、

「おれがよいと言うまで声を出すなよ」

と制し、

「そこの階から庭へ下りろ」

と指示した。

 言われた通り庭に下りると、

「向かって右手の方に進んでゆけ」

 右手を見ると、月明かりのもとで、低い生垣と木戸があるのが見えた。

 ほっとした博雅は小走りに木戸に歩み寄って、これに手をかけようとした。すると、

「待て、そこから出るのではない」

 耳元で萱鼠が囁いた。

「・・・?」

「左手の方に槿の花が咲いておるであろう」

 見ると、確かに少し離れたところの生垣に、ぽつんと一つ槿の白い花が開いている。

 花の傍に寄って、外を見ると、

「・・・!」

 少し離れたところに、晴明その人が立っていた。

 目が合うと、晴明は素早く白い指を唇にあて、声を出すな、という仕草をした。

 代わって、耳元の萱鼠が、

「そのまま花の咲くところを通り抜けるのだ」

 博雅はうなずいて、生垣の白い花に向かって足を踏み出した。

 すると、目の前の生垣が、人一人が通り抜けられるほどにすっと割れた。

 月の光を受けて青白い晴明の顔に、それとわかるほどの安堵の色が広がったのを見た、と思った瞬間、

「博雅さま!」

 背後から女の声がした。

 思わず博雅は振り向いた。

「なに・・・」

 口を開いた瞬間、博雅の体は動かなくなった。

 後ろを振り返り、何か言いかけた口の形のまま静止してしまっている。

 晴明ははっとして駆け寄った。

 見ると、庭の真ん中に青い袿の女が立っていた。

 青白い肌と青黒く光る髪とが、月の光の中に溶け出してゆくかのようだ。

 その顔は、興福寺の阿修羅像そのものであった。

「梨花どの」

 晴明が声をかけると、阿修羅は眉間の皺を更に深め、冷たい声で答えた。

「その名は捨てました。・・・梨花という女はこの世にはおりませぬ」

「梨花どの」

 晴明は、女の声が聴こえていなかったように繰り返して、

「やはりそなたであったか」

 梨花の唇が歪んだ。

「わたくしだからと言って、どうだとおっしゃるのです?この身はあなたさまには関わりのなきもの」

 晴明の眼差しが心なしか翳る。

「まだおれのことを恨んでおるのか」

 梨花は顎を突き出すようにして、

「おお、恨んでおりますとも。あなたさまのことも、道満さまのことも。・・・あなたがたは、わたくしの誇りを踏み躙ったのですから」

「ここへ来る途中、道満どのに会うた」

 晴明の口調は淡々としていた。

「阿修羅によろしく伝えてくれ、とのことであった」

「道満さまが・・・」

 梨花の顔色が変わった。

 きつい阿修羅の顔に、女らしい表情が宿る。

 が、すぐに、一瞬の動揺を呑み込むように、唇に薄く笑みを載せた。

「おかしなお話ですこと。今さら、道満さまがこのわたくしに何をよろしくとおっしゃるのでしょう」

 晴明はそれには答えず、博雅に目を向け、

「なにゆえこのお方を拐したのだ」

「先夜、お寺に忍び入りましたところ」

 梨花は淡々と答えた。

「蔵の戸口に仕掛けがしてあって、入れなくなっておりました。・・・あなたさまの仕業でしたのね」

「・・・」

「さて、どうしたものか、と思うていたところに、それはそれはよい笛の音が聴こえてきましたの」

 梨花の口元の笑みが深くなった。

 妙なる笛の音を思い起こすかのように、夢心地な眼差しになる。

「そうしたら、この方が笛を奏でておられた・・・余りによい音であったので、今宵はこのお笛の主を頂いてゆこうと、こちらにお連れしましたのよ」

「して、このお方をどうするつもりなのだ」

「さあ、どう致しましょう」

 晴明が問うと、梨花は首を竦めた。

「我が夫となって頂き、わたくしだけのために生涯笛をふいて頂きましょうか?」

 晴明は苦笑した。

「ずい分、贅沢な話だ」

「盗人とは贅沢なものでございますよ」

 梨花は唇を歪めた。

「だが、そうはゆかぬ」

 晴明はゆっくりと言った。

「このお方はおれの呑み友だちだ」

「・・・?」

 梨花は不審そうに眉を顰める。

「連れてゆかれると、一人でまずい酒を飲まねばならぬのでな。すまぬが、返してもらおう」

「何・・・!」

 晴明が一歩足を踏み出したので、梨花は少しうろたえた。

「いかなあなたさまとは言え、その生垣の内は我が結界。我が結界の内で我が術を解くことなど、出来ましょうや」 

 しかし、晴明は構わず博雅に歩み寄った。

 肩を抱き、耳元で二言三言唱えてから、耳の中にふうっと息を吹き込んだ。

 すると、

「わっ」

 小さく声を上げて、博雅は身動ぎした。

 晴明は、博雅の腕を掴むと、そのまま生垣の外に引っ張り出した。

 すると、開いていた生垣の隙間がすうと閉じてしまった。

「せ、晴明・・・」

 博雅は、目を白黒させて目の前の晴明を見、それから庭に立つ女に目をやった。

 月の光の下にぽつねんと立つ女の姿は、ぽつりと一輪だけ開いた月下のアヤメのようで、ひどく寂しげに見えた。

「晴明さま、お変わりになられましたのね」

「・・・梨花どの」

 晴明は、博雅と肩を並べて立ち、

「・・・そなたは変わってはおらぬな。あの頃と同じだ」

 梨花は、軽く顎を引き、鋭い目つきで晴明を見た。

 阿修羅の目であった。

「こたびはわたくしの負けでございます。・・・宝物は全てお寺へお返し致しましょう」

「・・・」

「しかし、いずれあなたさまには意趣をお返し致しますえ。あなたさまと・・・道満さまに」

 その時、屋敷の方から声がした。

「葵や、葵はおらぬかえ」

 男の声である。

 梨花の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。

「お客がございましたゆえ、わたくしはこれで失礼を・・・」

 ふわりと身を翻し、

「最早今宵限りの客でございます」

 呟くように言いながら、庭を横切って家の中に入っていった。

「晴明・・・」

 博雅は晴明を見やったが、月明かりの下ではその顔色を読み取ることは難しかった。

「とりあえず、寺へ戻って休もう。おまえも疲れておるであろう。・・・詳しい話は朝になったらしてやる」

 そう言って、晴明は踵を返して歩き出した。

 博雅も慌てて後を追った。

 博雅が追いついて晴明と肩を並べると、晴明は目を前に向けたまま、ぽつりと言った。

「心配したぞ」

 博雅は軽く目を見開いた。それから、花が開くように笑顔になって、

「すまぬ」

と答えた。



続く




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