目を醒ますと、辺りはすっかり明るくなっていた。
博雅は、見慣れぬ几帳の陰に横たえられていた。
そっと身を起こすと、身につけた直衣も烏帽子もそのままである。
「ここは・・・」
思わず呟くと、几帳の向こうから声がした。
「お気がつかれましたか」
きびきびした若い女の声である。
見ると、少し離れたところに、白い単に緋袴を穿き、青い袿を纏った女が座っていた。
「そなたは・・・」
博雅は息を呑んだ。
昨日出会った、阿修羅に似た女であった。
女は口元だけで笑った。
「葵と申します。以後お見知りおきを」
両手をついて丁寧に挨拶をした。
混乱した博雅は、何から訊ねたものかわからず、
「ここはそなたの家・・・」
「はい」
「何故わたしはここに・・・」
「わたくしがお寺より盗んで参ったからです」
葵と名乗った女は、さらりと言った。
「は?」
博雅は、目をぱちくりさせた。
「盗んだ?」
「昨夜、お寺のお蔵に収められた絹の反物を頂戴しに参上したところ、お蔵の周りに結界がめぐらされておりました」
女は淡々とした口調で、
「そこで、どうしたものかと思うていたところ、それはそれはよき笛の音が聴こえてきましたの」
女の口元の笑みにいたずらっぽいものが混じる。
「それでは、今宵はこの笛の音を頂戴しようと思いまして、あなたさまをお連れしたということなのですよ」
「なに・・・」
博雅は、口をあんぐりさせた。
「では、阿修羅に身をやつし、興福寺に盗みに入っていたのは・・・」
「はい、わたくしでございます」
葵は全く悪びれる様子がない。
博雅は困惑して女の顔を見た。
眉根を寄せず、口元に柔らかい笑みを浮かべていると、阿修羅の険のある顔とはかなり印象が変わる。
あどけない少女のようにさえ見えた。
「そなた、方術の心得が?」
連れてこられた時、おかしな術をかけられたことを思い出して、博雅は訊ねた。
「ええ、多少は」
葵は短く答えた。
博雅は口調を改め、
「何故、そなたのように、若く美しく、しかも並みの人にはない力を持った女人が、盗みなどに手を染めているのだ」
葵は鼻先でせせら笑うようにし、
「暇つぶしでございますよ」
「暇つぶし?」
「人の世など所詮は儚きもの・・・命尽きるまでの間、せいぜい面白きことをして過ごさねばつまりませんでしょう?」
「・・・」
博雅は口をつくんだ。
これとよく似た言葉を以前聴いた覚えがあった。
―蘆屋道満・・・
「わたくし、自らの欲や銭のために宝物を盗んだわけではございませんの。・・・絹や米などは、わが生活の資に充てさせて頂いてますけれど。やんごとなき御方々の献上された宝物は全てこの屋敷のどこかに隠してございますわ・・・ほら、そこにも」
葵が示す方を見ると、部屋の隅に見事な唐草模様の彫り込まれた黄金造りの香炉台が置かれていた。
「あれは、関白さまがお寺に献上なされたものとか・・・さすが、見事なものでございますわねえ」
博雅は、葵の方へ目を戻した。
「わたしをどうする積りだ」
澄んだ瞳にまっすぐ見据えられて、葵は思わず目を逸らせた。
「・・・さあ、どう致しましょう」
殊更何でもないことのように首を傾げて見せる。
「お屋敷にお使いを出して、あなたさまのお身と引き換えに黄金や絹を寄越して頂くようお願い致しましょうか」
「―!」
「それとも、いっそ天子さまにお願い申しましょうか。天子さまも、あなたさまのお笛と引き換えならば、どのような宝物でも惜しいと思わぬでしょう」
「ばかなことを」
博雅は眉を顰めた。
「そのようなことがあるわけがない。それに、我が家の者などの迷惑となるようなうなことをされるのは困る。増してや、主上の御心を煩わせるなど、恐れ多いことだ」
「まあ」
葵の笑みが苦笑に近いものに変わった。
「とにかく、お身を傷つけるようなことは致しませぬゆえ、心安くあらせられませ。後ほど、お食事などをお持ち致しましょう」
そして、立ち上がって出てゆこうとするので、博雅は慌てた。
「ま、待て・・・」
後を追って立ち上がった。
廂に出た女は、振り返ると片手を突き出した。
「それ以上近寄ってはなりませぬ」
博雅の動きが止まった。
「そこには結界が設えてございます。あなたさまが結界を越えようとなさると、大変痛い思いをなさいましてよ」
博雅は、思わず2、3歩後ずさった。
何とも情けなさそうな顔をするので、葵は思わず声を上げて笑ってしまった。
ころころと、朗らかな笑い声であった。
「それに、大きなお声を出したり、笛を吹いたりなさっても、外には聴こえませぬよ」
「ううむ・・・」
博雅はがっくりとその場に腰を下ろした。
葵はくすりと笑うと、袿の裾を翻して、立ち去った。
女が出て行くと、御簾がぱらりと落ちる。
辺りを見渡すと、その部屋は三方を壁に囲まれ、廂に面したところにだけ、御簾が設えられている。
ゆったりとして、かなりの広さはあるが、三方の壁のせいか、少し息苦しく感じられた。
博雅は、恐る恐る御簾に近寄って、手を触れようとしたが、
「痛っ!」
葵の告げた通り、ピリッとした痛みが指先に走った。
「参ったなあ・・・」
博雅は途方に暮れた。
結局、そのままその日は暮れた。
葵ではない、小柄な女が夕餉の膳を運んできた。
部屋の灯りを点し、傍らで給仕をし、済むと膳を下げてゆく。
声をかけても、にっこりと頷くだけで、気配も微かであるので、あるいは式のようなものか、と博雅は思った。
女が夕餉の膳を下げる時に寝床の支度をしていったので、博雅は袍だけを脱いで、これに横になった。
―晴明はどうしておるであろうか。
あの冷静な男が、自分が姿を消してしまって、少しは案じてくれているだろうか。
すると、何やらひどく心細くなった。
寝床の上に起き上がると、御簾の隙間から青い月の光が差し込んでいる。
耳を澄ますと、風が木々の枝をざわざわと揺する音がするばかりで、静けさが木霊するかのようであった。
静寂に耐えかねたかのように、博雅は脱いだ袍に手を伸ばし、懐から葉二を取り出すと、唇にあてた。
籠の鳥の啼くような、切ない響きの音が、青白い月の光にからみついてゆく。
だが、その笛の音すらも、解き放たれることを許されぬのである。
とはいえ、ひとしきり笛を奏でると、博雅の気持ちはかなり落ち着いてきた。
どのような時であっても、楽を奏でることは、博雅にとって何よりの慰めであった。
ほっと息をつくと、再び床に身を横たえ、いつしか眠りに落ちて行った。