興福寺に着くと、迎えに出た僧は、露骨に嫌な顔をしてみせた。

「寺でも調べを進めておるゆえ、修行の邪魔になるようなことはお控え下され」

と、陰陽師ふぜいにうろつかれるのは迷惑千万と言わんばかりであった。

 しかし、関白じきじきのお声がかりでもあるし、思いがけなくも博雅が同行していたために、そう粗略に扱うわけにもゆかなかったか、蔵の前で阿修羅を見たという二人の下人に会うことは許された。

 高慢ちきな僧どもとは違い、下人たちは都の高名な陰陽師に素朴な敬意を隠さず、晴明の問いに素直に答えた。

「では、寺の蔵に新たな財物が収められた夜には必ず阿修羅が現れ、翌朝にはその財物が失せている、と」

「左様です」

「蔵に財物がいつ収められるか知ることのできるのは、どのような方々ですか?」

「それほど限られた方々ではございません」

 蔵の管理に携わるものは幾人かいるし、こっそり運び込むというわけでもないので、たまたま近くにいて見かける者もいるであろう。

「なるほど」

 晴明は頷いた。

 それから、下人たちの案内で、問題の蔵と西金堂に足を運んだ。

 高床の蔵はしっかりした造りで、入り口の戸にはがっしりした蝦錠が取り付けられていた。

「あの戸口の辺りにお立ちになっていたのです」

 下人の一人が言った。

 その下人に晴明は訊ねた。

「阿修羅には腕が幾つありましたか」

 すると、下人は首を傾げ、

「はて・・・阿修羅ならば六臂のはずですが・・・」

 何しろ、夜目のことゆえ、よく憶えていないと言う。

 更に晴明は問いを重ねた。

「蔵の鍵はいずれに?」

 すると、下人たちは顔を見合わせた。

 そのうち一人がおそるおそる、

「覚暁さまがお持ちで・・・」

 と、ある高僧の名を挙げた。さる宮家に連なる身分高き僧である。

「ほう」

 晴明の唇に笑みが灯った。

 当然、鍵を持っている者が疑われて然るべきであるのに、そのような話にならないのは、その身分が高いからであろう。

 どのみち、蔵の鍵を開けたとしても、西金堂の一件は説明できない。

 下人たちに礼を言って別れた二人は、数多の堂宇の立ち並ぶ壮大の伽藍の中で、西金堂へ足を向けた。

 西金堂は、天平の時、光明皇后の発願によって建てられたものである。

 中に足を踏み入れると、須弥壇の中央に、色鮮やかに彩色された丈六の釈迦如来像が堂々たる姿があった。

 その両脇には、脇侍の薬王菩薩と薬上菩薩が優雅な姿型で立ち、周囲には、十大弟子や八部衆などの像が数多侍している。

 八部衆は、いずれも凛とした面差しの像であったが、中でも阿修羅の凛々しさは目を引いた。

 三面のうち正面を向いた顔は美しい少年のようであった。

 他の像が武装して立つのに、阿修羅のみ薄物の衣を纏うのみで、しなやかな上半身の線がよく見てとれる。

 舞を舞うさまを表すかのような六臂の腕の形が美しい。

「このように清らかなお姿の御像が物盗りなどなさるであろうか」

 博雅が呟いたが、

「そうだな」

 晴明は余り熱のこもらない相槌を打ってから、ついと踵を返して堂を出た。

 像に見惚れていた博雅がそれに気づいて慌てて後を追ったが、晴明はそのまますたすたと寺の外へ出て行ってしまう。

 晴明は寺の周囲をぐるりとめぐって、幾つもある門のうち、一番小さな目立たない門の傍で足を止めた。

 そして、近くに地べたに野菜を広げて売っている老婆を見つけると、袂から取り出した銭を与え、何事か話しかけた。

 すると、老婆は歯を剥き出してにいっと笑い、大きく頷きながら何事か答えた。更に晴明が問いを重ねると、立ち上がってどこかを指差した。

 晴明は頷いて老婆に礼を言った。

 そこへ博雅が追いついた。

「何を訊いたのだ?」

 問われて、晴明は余り品のよくない笑みを浮かべた。

「なに、暗くなってからこの門をこっそりと人目を憚って抜け出してゆく坊さまなど見かけぬか、と訊いたのよ」

「暗くなってから?」

「女のもとへゆくのさ」

「何と」

 博雅は呆れた。

「そうしたら、殆ど毎夜のように出かけてゆく僧がある、というではないか。そして、通うておるのはあの家だそうだ」

 晴明は、少し離れたところに見える木立を指差した。

 木々の間から藁葺きの屋根が見える。

「あの野菜売りの媼は、この近くに住まいがあるのだが、かの僧の持つ灯りがあの家の方に向かってゆくのを何度も見たそうだよ」

「おまえは、その女がこのたびの一件に関わりがあると思うのか?」

「まあな」

「それで?」

「今からその女に会いにゆこうと思うておる」

 それから、心なしか遠くを見るようなまなざしになって、

「ちと確かめたいことがあるのでな」



 近づいて見ると、木立の間に建っているのは、生垣に囲まれ、小さな庭を持った、小じんまりとしてはいるが、造りのしっかりした邸宅であった。

 ちょっとした貴族の別邸のようである。

 晴明は、生垣のすぐ外側に立って声をかけた。

「申し」

 すると、戸が開いて一人の女が顔を出した。

「おお・・・」

 博雅が軽く息を呑んだのは、二十歳になるかならぬかに見える女が凛として美しかったからだけではなかった。

 その顔が、興福寺の阿修羅像が生きて動き出したかと思うほど、かの像に似ていたのである。

 女は、生垣の向こうに立つ晴明を博雅を見ると、それとわかるほど顔色を変えた。

 晴明の方は、眉一つ動かさず、

「西大寺の方へゆくには、この道でよいのでしょうか」

などと訊いている。

 すると、女もすうっと表情を消し、この道をゆけば街道に出るから、そこでまた誰ぞにお訊ね下さい、などと落ち着いた口調で応じ、晴明が礼と言うと、軽く頭を下げてから戸を閉めた。

「驚いたな」

 もう十分声が聞こえぬくらい離れたところまで来ると、博雅は興奮したように言った。

「阿修羅の御像にそっくりではないか」

「ああ」

「おまえが確かめたいと言うたのは、このことか」

「まあ、そんなところだ」

 晴明は曖昧な顔で頷いてから、

「ところで、おれはまだ調べたいことがあるゆえ、今宵は寺に泊まるが、おまえはどうする?」

と訊いた。

「いや」

 博雅は首を傾げて、

「明日もこれと言うて用はないし・・・乗りかかった舟であるからな。最後まで付き合うよ」

「そうか、そうしてくれるか」

 晴明は頷いた。



 その夜。

 夜半すぎに博雅は目を覚ました。

「おや?」

 辺りがすっかり暗くなっているので、少し戸惑う。

 夕暮れ時に、興福寺の僧坊の一つで晴明と語り合っていたところまでは覚えているのだが。

 直衣も烏帽子も身に着けたまま高麗縁の畳に横になっていて、体には衣がうち掛けられている。

 どうやらうたた寝をして、そのまま寝込んでしまったものらしい。

「晴明?」

 声をかけてみたが、人がいる気配はなかった。

「どこへ行ったのだ」

 博雅は首を傾げた。

 ふと見ると、半蔀が開いているところがあって、どこから青白い月の光が差し込んでいる。

「おお、今宵は望月であったか」

 博雅は、少し崩れてしまった烏帽子を直しながら、戸を開けて廂に出た。

 中天に丸い初秋の月が浮かんでいた。

 僧坊の小さな庭の向こうには、木々の影が黒々と浮かんでいる。

 しんと静まり返った月の夜である。

 博雅は、さやさやと降り注ぐ月の光と、時折風に揺れる葉ずれの音に誘われるように僧坊を出た。

 足の向くままに広大な寺域を歩いているうちに、やがて興が乗って、葉二を取り出して唇にあてる。

 この世で浄土を観るかのような美しい音が夜の静寂(しじま)に滑り出て行った。

 どれほどの間、自ら奏でる笛の音に身を浸していただろうか。

 ふと、気配を感じて目を上げた博雅は、驚きの余り葉二を唇から離した。

 目の前で月の光に濡れて佇んでいるのは・・・。

「阿修羅・・・」

 天竺風の衣を身に纏い、黒髪を頭の上で高く結い、すらりと伸びた両足が草を踏んでいる。

 ふくよかな頬をし、きりりとした口もとと険のあるまなざし、凛々しさが月の光の中に零れでるかのようであった。

 しかし、博雅はすぐに違和感を感じた。

―腕が・・・

 三面六臂のはずが、顔も正面を向くのみであったし、二本の腕が体の両脇に垂れている。

―やはり、人か・・・

 博雅が思いをめぐらさぬうちに、阿修羅に似た人物はすうっと歩み寄ってくると、手にした薄い絹の衣をふわりと博雅の頭に被せた。

「・・・!」

 博雅は驚いて声をあげようとしたが、目の前で何かが白く光ったような感じがしたかと思うと、それきり意識が途切れてしまった。



続く


 ・・・何か、前に似たような展開があったような・・・。まあ、気にしないでやって下され。とほほ。



INDEXへ  小説INDEXへ