阿修羅

 その日、源博雅が例によって戻り橋の上で、

「おるかな、晴明」

と、呟いてから、土御門の安倍晴明の屋敷へゆくと、

「おや」

 門の前に車が出されていた。

「今日は出かけるのか・・・」

 少しがっかりして、博雅が踵を返したところ、

「待てよ、博雅」

 ちょうど門を出て来た晴明に声をかけられた。

「晴明」

 博雅は足を止めて振り返った。

「すまぬ、約束もしておらぬのに押しかけて・・・今からどこかに出かけるのであろう?」

「出かけると言うても遠くではないよ」

 晴明は言い、

「おまえ、今日は暇か?」

「おお」

「ならば、付き合わぬか?また仕事の筋でな。おまえに共に来てもらえると有難いのだが」

「そうか」

「ゆかぬか」

「ううむ」

「ゆこう」

「・・・うむ」

「ゆこう」

「ゆこう」

 そういうことになった。



「・・・で、どこへゆくのだ?」

 車に揺られながら博雅が問うと、晴明はさらりと言った。

「興福寺さ」

「興福寺?」

 博雅は眉を顰めた。

「興福寺ならば、南都ではないか」

「南都ではまずいのか?」

 晴明は涼しい顔だ。

「まずくはないが・・・おまえ先程遠くではない、と言うたではないか」

「言うたな」

「南都ならば遠くではないか」

「そうでもないさ」

「・・・おれは都のうちのどこかかと思うたぞ」

 博雅は口を尖らせたが、

「まあよい。その興福寺でどのような仕事の筋なのだ」

「うむ」

 晴明は頷いて、

「実は、これは関白さまから内々に持ち込まれた話なのだがな」

「小一条殿から?」

「そうだ、かの寺は藤家の氏寺であるからな」

「なるほど」

「何でも、関白さまが寺に奉納した金の香炉が奪われたのだそうだ」

「盗人か?」

「いや」

 晴明は唇に笑みを点した。

「阿修羅が取って行ったのだそうだ」

「阿修羅?」

 博雅は目を丸くした。

「阿修羅とは何だ」

「知らぬのか?仏法を守護する七部衆の一で、興福寺の西金堂には、釈迦如来と共にこの七部衆が祀られておる」

「そのくらい知っておる」

 博雅はむっとした。

「その阿修羅が宝物を奪うとは一体どういうことなのか、と訊いておる」

「まあ聴けよ」

と、晴明はこんなことを語り始めた。



 その日、関白の藤原忠平は、南都の興福寺に家人を使いにやった。

 寺に奉納する見事な黄金作りの香炉を届けさせたのである。

 寺では、これを一晩の間、西金堂に祀られた釈迦如来の像の前に供えてから、蔵に収めることにしていたので、その夜は仏前に灯りを点し、寺の下人と、関白家の使いの者とが堂内で夜明かしをしていた。

 夜半過ぎになった頃、突然ふっと仏前の灯りが消えた。

 番をしていた者たちが驚いて闇の中を右往左往した挙句に、手燭に火を点して見ると、

 本尊の前に、すらりとした人影が立っている。

「誰そ」

 誰何しながら灯りを掲げると、微かな光の中に浮かび上がったのは、

「おお・・・」

 色鮮やかな天竺風の衣を纏い、髪を頭の上に結い上げた、年若い少年のようにも見えるその姿は、

「阿修羅・・・」

 まさしく、七部衆の像の一つが動き出したものとしか見えなかった。

 「阿修羅」は、手にしていた霞のように薄い衣を、金の香炉にふわりとかけた。

 これを両手で包むようにして持ち上げると、呆然と見ている者たちの目の前で、そのままふうっと闇に溶け込むように姿を消した。

 我に返った見張りの者たちが仏前に駆け寄ると、金の香炉は跡形もなく消えており、すわ、と阿修羅の像に灯りをかざすと、何事もなかったかのように、いつもの場所に佇んでいる。

 そして、堂内の隅々を探したが、香炉はどこにもなかった。

 関白家の使いの者たちは大騒ぎになり、寺の僧たちを叩き起こすと、夜明けを待たずに都に知らせの馬を飛ばした。

「驚いたことに、こんなことはこれが初めてではなかったのだよ」

「ほう」

 博雅は、目を瞠って、身を乗り出して聴いている。

「実はしばらく前から、寺では夜更けに蔵の辺りで、阿修羅が佇む姿を、見回りの者などが目にするということがあったのさ」

 そうして、決まって翌朝には、前日に蔵に収めたばかりの高価な献上の品や、荘園より納められた絹などが失くなっているのである。

 蔵には、戸や窓をこじ開けたとか、壁を壊したとか言うような、外から人が侵入した気配が全くないので、これは、やはり人ならぬ身の仕業ではないかと寺の者たちは震え上がっていたところであった。

 寺では、これを堅く秘していたのだが、このたびの件で関白家の知るところとなり、

「こともあろうに、仏の像が財物を盗むとは・・・」

「奇異の事」であるとし、忠平は晴明に事の真相の解明を頼んできたのである。

「阿修羅というのは、もともとは悪神であったというが、まさかまことにかの神が財物を奪ったというわけではなかろうな・・・やはり妖しの仕業であろうか」

 博雅が言うと、晴明は苦笑した。

「まあ、妖しにもいろいろあるだろうが、人の財物などに用にある者は、そうはおらぬであろうよ」

「そうなのか?」

「金銀だの玉だの絹だのを有難がるのは人だけだ」

「そういうものか」

「そういうものだ」

「では、おまえは人に仕業だと思うのか?」

「まず、間違いなくそうであろうよ」

 朱雀大路から羅城門を通って都を出た車は、ほとほとと大和へ続く街道を南へ向かって行った。

 そろそろ南都へ入るかと思う頃、不意にガタンと車が止まった。

「何だ?」

 博雅が声をあげ、晴明は前の簾を上げた。

「これは、蘆屋道満どの・・・」

 牛車の前に、件んの薄汚い老人が立っている。

「このようなところでお会いするとは・・・何ぞ御用ですかな」

 晴明が問うと、道満は黄ばんだ歯の根を見せてにいと笑った。

「興福寺へゆくのか」

「はい」

「やめておいた方がよいと思うがの」

「何故です」

「思い出したくないことを思い出すことになるぞ・・・」

「はて」

 晴明は首を傾げた。

「わたくしが思い出したくないことですか?」

「そちらのお方には、余り聴かせたくない話になるやもしれぬぞ」

 道満は、晴明の隣に顔を出した博雅に向かって顎をしゃくった。

 晴明はちらりと博雅を見やってから、

「しかし、頼まれましたゆえ、そうたやすく止めるというわけにはゆきませぬ」

「ゆくか」

「はい」

「そうか」

 道満は頷いてから、くるりと踵を返した。こちらに背を向けたまま、

「では、もし阿修羅に会うたら、よろしく伝えてくれ」

 言い捨てて、すたすたと歩み去ってしまった。

 晴明は簾を下ろし、車はまた動き始めた。

―阿修羅によろしく、とは・・・

 博雅は不審がって、晴明に問おうとした。

 しかし、晴明が唇をきゅっと閉ざし、いつになく堅い顔をしているような気がして、何となく声をかけづらくなって黙ってしまった。



続く


ブツ(仏)ネタ第3弾?しかし、今回は人気No.1ブツ・・・。阿修羅ファンの方、許されて〜。

興福寺の七部衆像は、今は国宝館に収蔵されていますが、当初は、奈良時代に光明皇后が建立した西金堂に祀られていたものだそうです。



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