土蜘蛛
晩春の明るい日差しに包まれて、眠くなるような昼下がりであった。
晴明と博雅は、いつものように簀子に座して酒を呑んでいたが、この日は二人ではなかった。
二人と盃を囲むように座しているのは、狩衣を着け、烏帽子を被った、見たところ、小柄な若い男のようであった。
が、実はこれが若い娘で、むし姫こと露子姫なのであった。
いつも明るく屈託のない様子の姫が、珍しく沈んだ顔をしている。
「姫、何かご心配でも・・・」
博雅がそっと訊ねると、露子はこっくりして、
「けら男が病に臥せっているの」
「けら男・・・」
そう言えば、黒丸と共に庭に控えている男童は、いつもと違う顔である。
「風邪でもひきましたかな」
晴明が訊ねると、露子はかぶりを振った。
「いいえ、ただの風邪ならこのように心配はしませぬよ」
「何かよくない病なのですか」
博雅に問われて、露子は少し居ずまいを正した。
「ええ、今日はそのことで晴明さまのお力をお借りしに来たのよ」
「ほう」
晴明は姫を見やった。
「実は4、5日ほど前のことなのだけど」
と、露子はこんなことを話した。
露子は、北野にある別邸に滞在していたのだが、これにつき従っていたけら男が、例によって露子のために珍しい虫でもいないか、朝からその辺りの野に出て行っていた。
それが、昼下がりになって急に真っ青な顔で戻ってきたかと思うと、高熱を発してそのまま寝込んでしまった。
「今は熱も下がっているし、医師(くすし)も命に障るようなことはない、と言うのだけれど・・・」
気になるのが、外から帰ってきた時に、片足を引き摺っていて、
「痛い、痛い」
とひどく痛がるので、見てみると、
「右足の脛に何かに咬まれたような傷が二つあったの。大きさはこれくらい」
露子は手で傷の大きさを示して、
「虫や蛇に咬まれたにしては大きな傷だけど、犬などに咬まれた傷ではないの」
牙の痕らしい傷が二つ、ぽつりとあって、血もほとんど出ていなかった。
「しかも、あのようにひどく熱が出るなんて・・・。一体何に咬まれたのだとお思いになる?」
「けら男は何と言っているのです?」
晴明が訊ねた。
「何でも、蓮台野の方の草むらでに大きな塚があったのですって」
「塚が」
「そう」
露子は博雅にうなずいて見せて、
「その塚に大きな穴が開いていたの。けら男は中に入ってみたそうよ。そうしたら」
「何かに咬まれたのですね」
晴明が言った。
「そうなの。けら男はびっくりして一目散に逃げてきたし、穴の中は真っ暗だったので、何がいたのかはわからなかったそうよ」
「なるほど」
「これが、虫か蛇の類の仕業なら、わたしと黒丸とで調べに行ってもよいのだけれど」
露子は大胆に言ってのけてから、
「何となく、もしかしたら晴明さまの領域なのではないか、という気がするのよ」
「ほう」
「妖しの類ではないか、ということですか」
博雅が訊ねた。
「ええ」
露子は頷いて、
「けら男の足の怪我や熱が出た様子を見ていると、虫の毒や蛇毒とは違うようなの。・・・おかしなうわ言を言うし・・・」
「おかしなうわ言?」
「こわいこわい、とかそんなことは知らない、とか・・・。誰かと話をしているようなの」
「・・・」
「でも、熱が下がってからそのことを訊いてみたら、熱が出ている間のことは何も覚えていないと言うのよ」
「ふうむ」
晴明は考え込んだ。露子は少し首を傾げて、
「どうかしら、晴明さま。わたしと一緒に蓮台野へ行って下さらない?」
それから、博雅に顔を向けて、
「もちろん、博雅さまもご一緒に」
「・・・は?」
博雅は目をぱちくりさせた。
すると、晴明がおもむろに、
「わかりました。ゆきましょう」
「行って下さる?」
露子の顔が明るくなった。
「わたくしも少々心当たりがないわけでもないのです。姫のおっしゃる通り、おそらくはわたくしの領分かと」
晴明は言い、博雅を見た。
「博雅、おまえもゆくであろう?」
「いや、おれは・・・」
暗い穴の中に棲む得体の知れぬ妖物なんぞに関わりたくない気がして、博雅は口ごもった。しかし、
「ねえ、博雅さまもゆきましょうよ」
露子が口を添える。
「ゆかぬのか」
「・・・むう」
「ゆこう」
「・・・ゆ、ゆく」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
翌朝、晴明と博雅は、徒歩で北野に向かい、菅公を祀った社の前で、黒丸を伴った露子と落ち合った。
そのまま、露子の案内で、北野の社の北側に広がる蓮台野に足を運んだ。
柔らかく萌える青草を踏んでしばらくゆくと、
「あれではないかしら」
露子が指差す方に、なるほど、塚のように地面がこんもりと盛り上がったところがあった。
中腹には、黒々した穴が口を開けている。
近寄ってみると、大人が首を屈めて入れるくらいの大きさである。
黒丸が先に立って、一行は穴の中に入った。
中に入ると、急にひんやりとした。
暗闇の中で、黒丸の体からぼうと青白い光が放たれ、足もとが明るくなる。
穴の中は存外広く、足元が下りになっているので、すぐに首を屈めなくても歩けるようになる。
そして、いくらもゆかぬうちであった。
ゆくての暗闇に紅い光が点った。
一行は思わず足を止めた。
「何だ、あれは・・・」
博雅が息を詰めて呟いた。
と、次の瞬間、
突然黒丸の発する光の中に、巨大な土気色の生き物が姿を現した。
「まあ」
露子が声を上げた。
そのものは、二つの節に分かれた胴体と、八本の足を持ち、小さな頭には八個の目と二本の牙が光っていた。
「これは蜘蛛だわ」
露子の声は、恐怖というより、興味をひかれた、という声である。
「巨大な蜘蛛だ・・・」
博雅が呻くように言った。
大蜘蛛は黒丸に喰い付こうとしたが、露子の式は身軽にこれを避け、主の前に立ってこれを背中に庇った。
博雅も腰の太刀を握って前に出ようとしたが、晴明がこれを押さえた。
「太刀は抜くな、博雅」
「しかし・・・!」
「まあ、おれに任せろ」
言葉を交わす間に、大蜘蛛が二人の方に向かってきた。
晴明と博雅は左右に飛び離れて逃れたが、何を思ったか、蜘蛛は体の向きを変えると博雅に襲い掛かった。
狭い穴の中で退路を断たれた博雅は、太刀を抜き、紅い眼を光らせて襲ってくる蜘蛛に立ち向かおうとした。
「博雅!」
晴明は声をあげ、いきなり後ろから蜘蛛の巨大な腹部を強く蹴った。
蜘蛛は軽く仰け反ってから、晴明の方を振り返った。
そして、虫独特の素早い動きで晴明に襲い掛かる。
「晴明!」
博雅からは、蜘蛛の体が邪魔で晴明の姿が見えていない。
晴明は反射的に左腕を顔の前にかざした。
その腕に蜘蛛が牙を立てるのと、晴明の右手が呪符を蜘蛛の顔に投げつけるのと、どちらが先であったか。
一瞬の稲光のように、鋭い光が短く走ったかと思うと、大きく体を仰け反らせた蜘蛛は、身を翻し、穴の奥へと走りこんでいってしまった。
「晴明!」
「晴明さま!」
博雅を露子が駆け寄ると、晴明は眉を顰めて、
「やられたよ・・・」
と、蜘蛛の牙の痕の残る左袖を示した。
「咬まれたのか?」
博雅は、慌てて晴明の左袖を捲り上げた。
「これは・・・」
博雅は息を呑んだ。
晴明の白い腕に、牙の痕が二つ赤い傷を作っていて、その周りが痣のように赤く腫れている。
「けら男と同じだわ」
露子が呻くように言った。
「では、やはりあの蜘蛛が・・・」
博雅は、蜘蛛が消えた穴の奥へ目を走らせてから、
「このままだと、おまえもひどい高熱になるのではないか?」
不安そうに晴明の顔を覗き込んだ。
「何、大したことにはならぬよ」
晴明は、博雅を安心させるように少し微笑して見せた。
「そうだわ、うちの別邸はここから近いの。そこへ行って手当てをしましょう」
「いや、我が屋敷もそう遠くではありませぬし・・・」
晴明が辞退するのにも構わず、露子は晴明と博雅をせきたてるようにして、穴を出た。
そして、黒丸に、
「晴明さまがお怪我をされたので、屋敷にお連れするから、車を寄越すよう言ってきてちょうだい」
と言いつけた。
晴明は何も言わなかったが、刺された腕がひどく痛むらしく、左手で右腕を支え、微かに眉を寄せている。
それに気づいた博雅が、晴明の背中に腕を回し、空いた方の手で傷ついた腕を支えてやると、晴明は安堵したように、少し博雅の方に体を預けるようにした。
すぐに、橘家の舎人たちが牛車を送ってきた。
そして、北野の社にほど近い、橘家の別邸にたどり着いた頃には、早くも、博雅の体に寄りかかっていた晴明の体が、それとわかるほど熱を帯び始めていた。
息遣いも心なしか苦しげである。
露子は、女房たちに指示をして、寝床を用意させ、舎人の一人に命じて医師を呼びにやらせた。
博雅がおろおろと立ち竦んでいる間に、晴明は奥の間に連れて行かれ、そこにしつらえた褥に寝かしつけられ、呼ばれた医師は、痛み止めと熱さましの薬を調え始めた。
気がつくと、博雅は一人ぽつんと病間の御簾の外に立ち竦んでいた。
忙しく立ち働く人々に、何となく邪魔にされる形で追い出されるように出てきてしまったのだ。
本当は、心配でたまらず、晴明の傍を離れたくなかったのだが、
―おれはこういう時は、何の役にも立たぬからなあ。
ため息をついた。
そして庭に面した簀子に出て、そこで腰を下ろし、しょんぼりと俯いてしまった。
たんぽぽ様、40000打キリリクでございます。
まだ見て頂いていますでしょうか〜。
意味もなくB級アクションにしてしまいました。おまけにまた前後編だし(-_-;)
平にご容赦くださいませ。